徽宗

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徽宗とは、中国の北宋時代の文人・造園家。大小2つの庭を所有していた。

概要[編集]

北宋時代を代表する文化人であり、絵画・書画に優れた作品を残している。痩金体というその名の通り痩せたような細い線から成るフォントの発明、それらを採用した貨幣デザイン、また文人画でも名高いが、もっとも彼を高名にしたのは造園家としての評価であることは疑いはない。

造園家として[編集]

徽宗が庭に集めた奇岩の一つ。

造園家であり、中国最大の資産家でもあった彼は、開封にある屋敷に自分好みの小さな庭を作ることに心血を注いだ。そこには、さまざまな珍しい木、変わった形の岩石などが集められ、彼の美意識を反映した世界が作り上げられた。蔡京童貫といった一流の文化人の協力のもと制作された庭園の景色は素晴らしいもので、これにより彼は天下第一の風流人としての地位を確固たるものとした。しかし彼はこれに満足せず、ますます多くの物品を収集し庭園の質を高めようとした。

ところで、この庭園に集められた石木のたぐいは、もちろん元々そこにあったわけではなかった。実は彼はそれよりもずっと大きな庭の所有者でもあり、木や石はそこから持ちだされた物だった。どういうわけかこの徽宗という人は、屋敷内の小さな庭の造営に没頭したものの、先祖から相続した大きな庭の方には、まるで興味がなかったらしく、ありとあらゆる石木を片っ端から引っこ抜いて、しかもずるずると引きずって小さな庭まで運搬したせいで通り道の草木はなぎ倒され、砂埃が舞い上がって荒れ放題にされた。彼は大きな庭については、石木の発掘場くらいにしか思っていなかったので、もちろんろくに管理などしておらず、いつの間にか108人の浮浪者が住み着いていたり、怪しげな宗教団体の隠れ家になったりしていた。造園に必要な資源を失うことを恐れた蔡京や童貫らが彼らを追い払っていたが、何しろあまりに広いので手が回らず、そうこうしている内に北隣の人間と、自分の子供たちに大きな庭の管理権を乗っ取られ、彼は大切な財産を失うことになってしまった。

こうして彼のライフワークであった造園も、それ以上の継続は不可能になった。大きな庭があってこそ、小さな庭を造営できたことに初めて気づいた徽宗であったが、全ては手遅れとなっていた。「万水千山(庭の木や石)が、かつて何処にあったのか、今となっては分からない」とは、彼が晩年に詠んだ後悔の歌として有名である。

関連項目[編集]

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本項は第33回執筆コンテストに出品されました。