押坂彦人大兄皇子

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「おお親愛なる息子よ!...しかし…私の脳内息子かもしれないのが悔しい話だ。」
押坂彦人大兄皇子 について、敏達天皇

押坂彦人大兄皇子(生没年および、実在不詳)は、史書によるところの飛鳥時代にいたとされる皇族。それらの記述によると押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのみこ)、のほかにも麻呂古皇子、太子彦人皇子、忍坂日子人太子・皇祖大兄というもっともらしい名前が数種与えられている史書に書かれている内容に即して言えば敏達天皇の第一皇子にあたり、母は息長真手王の娘・広姫でまた舒明天皇・茅渟王の父にも当たるというつーか、本来、『日本書紀』で用いられている基本的ルールでは、略称はあくまでも『押坂皇子』になるべきはずである、と言うことは、事実上無視されている。

概要[編集]

蘇我氏の血を引かない敏達王統の最有力者であって、忍坂部・丸子部などの独立した財政基盤を有し、王都を離れて水派宮(みまたのみや、奈良県河合町か)を営んでいたとはいえど、それは『日本書紀』に記述されていることからそう推測されるわけで…、意外と裏は取れていないのではないかと邪推しちゃえる余地はあってしまったりするので、さすがに断言は出来ない。 日本書紀による用明天皇の崩御(587年)後に王位継承者として候補に挙がったが、対立する蘇我系王族が台頭したため、以後の史料には活動が一切見えず、蘇我氏によって暗殺されたとの憶測もある、のであったら、やはりこれはものすごく重要な出来事で、やはりそれに関してはきちんと史書につづられ、後にも改ざんさせられずに残存すべき内容かもしれない物であり、この点をあくまでも前提とするなら、彼が暗殺されたというのはお門違いな推測と分析されるべき物であろう。つーか、本当は実在の人物じゃない、うんぬんすんぬん、ブツブツブツ…

生存に関する諸説[編集]

ただし、『一代要記』や『紹運録』を基に逆算される舒明の生年(593年)とその弟の存在を考えると、592年の推古天皇即位後もしばらく生存していたはずで、非蘇我系の王位継承候補者として、蘇我系の竹田皇子や厩戸皇子と比肩し得る地位を保っていたと思われる、と言うことだろうけれど、まあ、舒明天皇達の父親は穴穂部皇子とか倉皇子とか橘麻呂皇子にしたっていいだろーし、まあ、わざわざ存在感の全然無い人物を先祖として敬った歴史上初の本格的なマザコン野郎とか彼の弟や、その両方の子孫がとりあえずごまかした、と言うことでF.A

死亡に関する諸説[編集]

607年に王位継承者(厩戸)を資養する壬生部(みぶべ)が設置されているので、これ以前には亡くなっていたらしい。つーか、そもそもが最初からいない人物をわざわざ作成して真相をごまかすということなんで、どこか後ろめたいことが、史書担当の皇族・貴族達にあったやもしれぬ

人物に関する諸説[編集]

忍坂部や丸子部伝来とされる私領は「皇祖大兄御名入部」(ていうか、そもそも日本書紀等のルールでは『押坂皇子』となるはずがそうじゃないのだから、やはり、ここは舒明の父親に関する黒歴史が...)と呼ばれて、以後も息子である舒明から孫の中大兄皇子(後の天智天皇)らへと引き継がれて、大化の改新後に国家に返納された(『日本書紀』大化2年3月壬午条)と考えられている。

死後においても、皇子の系統が蘇我氏や上宮王家に対抗して舒明即位から大化の改新の実現を可能にしたのは、こうした財政的裏付けの存在があったからだと言われているが、舒明天皇即位前後に比較的若い蘇我氏の当主の蘇我蝦夷が舒明天皇の人格の良さに惚れ込んで、二人三脚的な政治をできる柔軟さを持っていたことや、一方では、蘇我入鹿のゲイ趣味をネタに強請って山背大兄皇子をぶっ殺さざるを得ない状況に追い込んで、そして事なりしあと、乙巳の変で入鹿まで殺して口封じをしようとした孝徳天皇の腹黒さとそれに便乗した中臣鎌足の狡猾さの存在のほうがぶっちゃけ大きいんだろうな、って。