誰かが何かをしてくれる病

出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』
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独自研究:この記事や節の内容は独自研究であるとする見方もあるようですが、ここアンサイクロペディアで笑いを取るためには自分のアイデアを記事に注ぎ込む事が不可欠です自己言及的なページにならない程度に我が道を突き進んでみてください。


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誰かが何かをしてくれる病(だれかがなにかをしてくれるびょう)、別名「期待」とは、天下に蔓延する奇病である。この病に罹患すると、何をするにしても自分でやるという最も手っ取り早い方法を忘れ、最悪の場合、いつまでもいつまでも座して死んでもなお待ち続けることになる。あわせて、もう一つの特徴として、人にやってもらっても自分の望む形でなければ即座にブーたれるという、やってる側にしてみれば「ぶっ殺したろうか」と思うような反応を見せることも多い。

この奇病に罹患する主な対象は、一般的に夢見がち明るい未来、軽薄なニンゲンカンケイなど、見た瞬間に「よっしゃ、今から全員、泥を噛め」(砂でも可)と即座に言い捨てることが可能な連中が多く、それがゲームスポーツといった対象ならまだしも、政治経済といった社会の根幹を成す場所ですらこの奇病が蔓延することがある。そのような場合、往々にして国が傾くことになる。

この記事では、主にどのような分野で、この奇病に罹患した患者がどのような行動を起こすかを詳細に説明する。

概要[編集]

まず、当たり前の話であるけれど、人間は小さいころは誰かにすがらないと生きていくことはできない。多くの動物もまた子育ての期間を設けることで子々孫々まで自分の遺伝子を伝える可能性をなるべく高くすることに時間をかけている。しかし、この奇病に罹患すると、動物界においてすらごく当たり前な親子関係が密接になりすぎていくことになる。その結果、親離れ、子離れといった社会形成の重要な要素が失われ、まるでカッコウに托卵されたかのように、需要供給の一方的な関係がいつまでも継続。供給側が死ぬか潰れるかするまで、需要側がえんえんと巣でくちばしを大きく広げているような光景が続くことになる。

安心しろ、ニートなんぞよりよっぽどタチが悪い

その結果として、が死に、もしくはが死んだとしても、この奇病が治ることはまずない。「次の需要対象」を見つけるだけである。見つけられなかったら死ぬだけである。幸いにも、多くの場合において、その対象はだのスポーツチームだの阪神タイガースであるため、需要側が倒れることはまずない。ただ、そんなでかい対象ですら倒れそうになる。これは悲しい事実である。しかし、それ以上に大きな問題として、これがマンガアニメゲームといったものが対象になると、供給側である作者を本気で期待で押しつぶすクソバカタレが存在する。

本当に、ニートなんぞよりもタチが悪い。両方掛け持ちだったらなおのこと悪い

アニメの事例[編集]

この項目を読む前に事前に了解してもらいたい事実として、この記事の初稿を書いている人間は、その直前にアニメ「機動戦士ガンダム00」についての記事を、口から魂を吐き出しながら手直ししていた。そのため、若干アニメの項目に対する表現が手厳しくなる可能性がある。そこのところを重々承知してもらいたい。

というわけで、信者死ね

アニメについて期待という業病に最も深く汚染された存在、それがいわゆる信者と呼ばれる、狂った存在である。に狂ったといえば聞こえはいいけれど、狂ってしまえば愛もクソもないのが正しい認識である。事実、どんな素晴らしい作品でも信者が狂えば狂うほどその活動は限定されることになり、信者と一緒に地獄へ落ちるのが大変によくある話で、実際のところ、下手にヒットしてファンを獲得したところ、ファンという言葉の語源である「ファナティック(狂った)」な連中も一緒に獲得。作り手の一挙手一投足にまで口出しするようなクソバカが横行することで、作り手の遊びも余裕も一気に減退。まるで判を押したかのような、失敗を恐れるクソワンパターンな展開で逆に新規の客を減らし続け、その結果、投資額は増加させてもファンの数が増えないという悪循環に陥るのが、アニメもマンガもゲームにおいても、大変にありすぎる話である。

とりあえず、古参を殺せ。ファンを殺せ。その上で、信者を追放しろ。

これができないアニメ製作会社は、往々にして先ぼそる運命にある。あわせて、日本のアニメシーンにおいて10年以上稼いでいるコンテンツであるガンダムエヴァンゲリオンスタジオジブリにおける唯我独尊度はハンパなものではない。縦横無尽に製作側の勝手でコンテンツを製作、その結果、新規ファンは開拓され、古参との血の入替とどこをどうしても離れようとしない信者の増加、そして、信者の存在に辟易するアンチの増加に大きく寄与している。

創作ではそれが正しい。最も、ウィキペディアにおいて信者の書き込んだ文章をン十万バイト読まされる側にとってみれば、「信者を先に殺せ」と言わざるをえない。もっとも。殺しても死なないからこそ信者である。キリスト狂が2千年かけて世界中を席巻したのは、結局のところ、上記のような制作者サイドの勝手に右往左往した連中が大変に鍛えられたおかげである。

たまったもんじゃねえ

マンガの事例[編集]

アニメの話と違い、マンガについてはこの奇病に関する感染者の事例は、いわゆる信者と呼ばれる存在まで汚染されるような話は少ない。これは、アニメのように、視覚と聴覚に訴えかけるものではなく、あくまで視覚オンリーで、あわせて、2010年現在、およそ50年続いている日本のアニメ文化と違って、マンガ文化はその倍の100年、かなりの割合で世の中に浸透していることも関係している。

その結果、過度の期待というクソたわけのロクデナシのヒトデナシの化け物は、アニメほど闊歩せず、むしろ、期待を上手にコントロールするようなブレーキがそこかしこに存在している。

主に休載として。

実際、休むことの出来ないアニメがアホな戦闘シーンのアホな効果やアホな演出で時間稼ぎをするのに対し、マンガでは1ヶ月も2ヶ月も半年も1年も休むことが可能であり、その結果として、信者を汚染していた期待菌の活動も徐々に縮小。連載が再開されるころには、すっかり正気を取り戻し、冷静な目で作品に対応することができる。ただし、一部の作品においては例外的に、信者が作者に対して攻撃を加えるまで先鋭化した事例も存在し、作品が未完成のまま雑誌から消えたり、ブチ切れた作者が無理やりに作品を終了させたり、本当に作者が倒れたりと、まさに散々な話も存在している。

これを、弱小出版社の悲劇と呼ぶ。

ゲームの事例[編集]

ゲームの場合における期待菌の活動は、少々変則的である。というのも、一般的な期待は続編という存在にかけられるものであり、そもそも、続編というものが出ない作品が多い、もしくは出てもそれほど面白くもない作品ばかりだったためである。しかし、長い歴史の中には強烈な信者を生み出すような作品が数多く存在し、そして作り手のほうもそういった信者を対象とすることで、より名声に泊をつけていったという話がある。実際、大昔のゲームの信者に言えることは、「こんなんクリアできるかボケ」→「クリアできた。自分は神。後、制作者も」という、まさにサドマゾのような関係であり、難しければ難しいほどイイという、主に、買う側の懐具合に直結する「長く遊べる」ものが優良という視点にたった関係で製作された作品がほとんどだった。

・・・イースまではね。

日本ファルコムの作品イースは、そういった信者優先のゲーム製作から一歩引き、初心者でも簡単に遊べるをコンセプトに、ストーリー、グラフィック、アニメーションなどで客をひきつける作品として一世を風靡。その後もファルコムは同じようなコンセプトで良作を立て続けに製作し、一気にパソコンゲーム業界の頂点に躍り出る。しかし、世の中そんなに初心者サイドに一気に傾くワケがない。けれども、難しさに悲鳴を上げるよりも、きれいさに感嘆の声を上げたほうが、実はになることに気づいた結果・・・20年後にゲーム業界が破綻しかけるとは、正直なところ、誰も予測できなかった。

を呼び込まない。

良い信者が良い新規の客を呼び込む。20年後のゲーム業界で忘れられた真理である。ちなみに、悪い信者とは、新作の期待でバカダンスを踊る連中であり、新作の現実に何かしらの反応を示す連中である。良い信者は、良い作品ならば、買おうかどうか迷っている新規の客を応援し、悪い作品なら、その旨を恥じることなく語る。

感情を抜きにして。

期待菌は、主に感情を司る脳の部分を著しく欠損させる効果があるため、悪い作品ほど冷静な視点で見ることが出来なくなる。諦める。ただそれだけで、次の一歩へ進むことが出来るのに。

政治の事例[編集]

政治の事例などは、特に期待が横行しているように見えるかもしれない。しかし、実際は期待に対する裏切りもまた横行しており、誰かが何かをしてくれるなどといったクソ甘ったれなボケほど、選挙のたびに現実で首を絞められ、金をむしりとられ、残されるのはただただアカルイミライだけ、まさに期待するほうがおかしいという、見ている分には大変に楽しい話ばかり聞こえてくるのが実体である。

むしろ、政治の現実をどうしてアニメやマンガなどに応用できないのか。

そんな嘆きが聞こえなくもない。もちろん、政治はそもそも現実に直結する話で、アニメやマンガ、ゲームは非現実の話である。それでも、応用ぐらいはしてもいいんぢゃあないだろうか。

それとも何か。政治家は期待すれば空飛ぶのか

・・・そういえば、期待していなかったにも関わらず、空へ飛び出した政治家は実在する。群馬4区の三宅雪子議員は、この記事を書くわずか2週間前の2010年11月2日に議員宿舎で酔っ払って、あろうことか4階のベランダから落っこちた。その結果、彼女に投票した有権者の得た期待は、天に召された。幸い、本人は全治1ヶ月だったけれど、本人への期待、議員としての未来、その他もろもろ一切合財、天へ召された

このように現実の世界においては、期待する気すらおきないアホな話がまかり通り、期待したいこと、期待してもいいこと、むしろ「当選したらうんぬんかんぬん」といった約束事まで一切合財放り出されるのがデフォである。こういった現実を踏まえれば、期待菌に犯された信者たちが夢の世界で生きたくなる気持ちも分からなくもないが、実は政治家も期待菌に汚染されたやつばかりである。2010年現在うんぬんではなく、長い歴史において。長いものには巻かれろ、党利党略、派閥政治その他もろもろ一切合財、全て大きな権力への期待でできている。

本当にたまったもんじゃねえ

経済の事例[編集]

経済の事例では、政治以上に期待菌の活動についての実例が多い、というよりもむしろ、経済という代物が実は期待菌に犯された連中から金をむしりとることで回っているものである。そもそも1400年代に活版印刷術が発明されて以降、広告業が発展すると同時に商売というものが、いかに人々を期待させ、金をサイフから出させて、後は天か、最低でもに任せるという形へと変貌を遂げた以上、どうしようもない話である。

もう、後ろには戻れない。

その結果として、繰り返す期待こそが世界中に金をより一層回らせる存在となったわけで。そして、いつの間にか、人間の欲望に直結する期待菌を、広告業を含む経済界が国や世界に向けてぶちまけていくようになっていく。

ま、よくある話である。

しかし、世の中は経済界自体、期待菌に汚染されることが多々ある。特にバブル経済なんて代物は、まさに期待で膨らんだ風船を膨らまし続けることで成り立つものである。その結果、バブル崩壊やリーマンショックで大被害をこうむるのは歴史の一部。そして、思ったよりも動員が伸びなかった借りぐらしのアリエッティ、どこかの日本中で大人気の少女時代、いつまでも子供たちに人気のプロ野球といった、実体経済と相反する虚飾にまみれた、稼げるかもしれない金額に対する期待値のみのゴリ押しがまかり通るのが経済の一部である。

それぞれの信者に一言。違ってたらイイネ

しかし、現実の失敗を無理やりに成功と糊塗する行為ほど、後味の悪さを感じさせるものはない。実際問題として、期待値以下しか稼げない、むしろ広告料から考えれば大赤字、それでもそれまでの付き合いでなかなか切ることのできない不良コンテンツに振り回されるのは、倒産寸前の会社によーーーーーく見られる光景である。そして、多くの場合において、そのようなコンテンツの先にあるのは、明るい未来とは名ばかりの真っ暗なお先でしかなく、見ている国民の意欲、ひいては国力自体を減退させていくことに直結する。

ま、よくある話である。

そのうちの一部分が、アニメ、マンガ、ゲーム業界であることを考えると、いかに広告で踊らされたアホな期待が、国の根幹である国民の意欲を揺るがすかという話になる。本当に業病である。

戦争の事例[編集]

一番最悪なのは、一国の存亡に関わる戦争において期待菌が蔓延すると、えてして国が滅ぶ。滅ばなくても、敗北の可能性が高くなる。てゆうか、だいたい負ける。

ごく当たり前の話である。

もし、戦争において、敵が自分の希望どおりに動いてくれるなら、誰も苦労しない。どこぞのコーエークソゲームのAIだったらまだしも、人間関係における嫌がらせの極地ともいえる戦争状態に、どこをどうしたらそんな甘い展望が出来るやら。敵をこちらの期待どおりに動かすには、敵の首都に進軍して敵の官邸に突入、敵の首領を確保してからの話になる。あわせて、イラク戦争では、その後ですら想定外の事態が続出している。

もっとも、ベトナム戦争で世界一の軍隊を敗北させたアメリカの期待である。世界各国、むしろテキサスの腐れ脳みそとその取り巻き以外のアメリカ国民ですら、その後においても混乱が継続していくことは想定内だった。期待もクソも抜きで考えれば、誰にでも分かる話は、確かに存在する。

治療方法[編集]

このように、人心を乱すアホな期待を治療する方法は、すでにアニメ業界の一部やマンガ業界で確立している。

信者ガン無視。何を言おうとほざこうと叫ぼうが暴れようが何しようが、気にしない

すると、いつの間にか期待菌に踊らされたバカの活動が縮小。バカがバカオドリを踊らなくなるため大変静かになる。もっとも、その分金は天下に回ることはないけれど、作品自体の質の維持には効果バツグンで、普通に面白いという評価を得ることができる。これが、期待してた分面白いなどというろくでもない言葉を得ようとすると、作り手が地獄へ落ちる。本当に落ちる

マンガの神様と言われた手塚治虫が、いつまでもいつまでも無体な客の期待にこたえ続けた結果、ムリな連載にムリなスケジュールでその寿命を大幅に縮めたのに対して、客の期待もクソもガン無視して自分のやりたいようにやっている妖怪水木しげるは、主にその年齢から(2010年現在、88歳)誰もはっちゃけた面白さを期待しないにも関わらず、普通に面白い作品を上梓し続けている。この事実は、結局のところ、期待というものがどれぐらい「次の作品」への欲求、自分に対する「未知の存在」で出来ているかということの証左・・・にはならないか。うん。しかし、まだ描けるまだ描けると死ぬまで書き続けた側が未完の作品を大量に残して神様になったのに対し、いつか死ぬ、もうすぐ死ぬといわれ続けていた側が、妖怪といわれてもなお面白い作品を描き続けている。未完の作品もなく。

とりあえず、客の期待に打ち勝った側が、長生きする証左ではある。

阪神[編集]

もう一つの有効な治療法?として、この奇病に罹患した患者を周囲に認めてもらいつつ、徹底的に辛い現実を投げかけることで、より先鋭的な信者を大量に増産しながら、周囲にも「仕方がない」と思わせる手段が存在する。だいたい、一つの経済活動として世の中に認めてもらえれば、弾圧でもされないかぎり、その期待菌の塊は世の中に浸透すると見ていい。

これを宗教という。

このようにして増産された信者が、それこそ10年、20年とかいうレベルではなく2世代、3世代、もしくは先祖代々といった血脈にまで期待菌を植え付けることで、経済に動かされる存在から、むしろ経済を動かす存在にまで昇華した事例も多い。もちろん、この段階まで行くと広告業界も信者たち側にたち、常時新しい期待菌を植え付け、毎年毎年飽きることなく有料外国人(誤字ではない)やら10年に一人の若手を増殖させ、むしろ、信者ですら「バカやなあ」「アホやなあ」「でも阪神だからしゃあない」とまで言わせるレベルである。ここまでくると、期待を通り越して既にそれこそが関西の現実というレベルで物事が動いている。

繰り返すが、もちろん、宗教のことである。

ちなみに、このレベルで世の中に浸透すると、期待菌の除去も簡単になる。治療したかったらさっさと異端に乗り換えるか、もしくは野球ファン自体やめるのが一番手っ取り早い。

もちろん、宗教の話である。

家庭[編集]

なお、上記する例はあくまでも世の中に対する話であるけれど、一般家庭における子供、もしくは親への期待ほど、その後の人生を間違わせるきっかけとなるものは他にない。・・・ものすごく、大風呂敷を広げた気もするけれど、果たして、人生の重荷足りえるものがマンガやアニメにあるか。または、親の期待とインターネットのどちらか人生を狂わせたか。さらに言えば、「自分はこんなもんじゃない」とか何とか言う自分自身への期待は、いったいどれだけの人生を破滅させていったか。

・・・とりあえず、泥を噛め

幸い、世の中というものは、家庭と違って大変に現実で出来ているため、期待菌を無理やりにでも除去してくれる行為にみちている。そいつの人生なんざどうなっても構わないけれど、それでも期待菌に犯されたままの状態と、冷静に家庭や自分の人生を現実的に見つめられる状態は、後者のほうがマシ。だいぶマシ。もっとも、中には血脈にまで期待菌に犯された存在もいるわけで、それを家族愛と感じるか、もしくはがんじがらめの鎖と感じるかは、それぞれの経験による。ただ、世の中と違い、家庭ほどバカがバカオドリをする機会が多いことと、それこそが各家庭の歴史、日々、その他になることも確かである。いいもわるいもなんもかもあって家庭であるわけで。

そこらへんは、まぁ、メンドクサイ。

アンサイクロペディア[編集]

アンサイクロペディアにおけるこの業病の罹患者は、往々にしてガン無視される傾向にある。もっとも、このサイトにはアニメやマンガの世界と違って面白い記事を書いて書いてとせがむ人間はいない。いるのは、自分なら面白い記事が書けると、自分の才能に期待している連中か、自分の笑いの実力にある程度の見切りをつけてもなお、このサイトにしがみつこうとする業の深いクソ野郎ども、そして一般人である。

しかし、中には適当に即時削除レベルの記事を書いて、後は任せますなどというたわけた一言で記事をぶん投げた結果、初版投稿者が赤っ恥を書くレベルで投げ返された事例も存在するが、往々にして、即時削除されるのがいつもの光景である。一言で表すとこうなる。

知るかボケ

そもそも、そんな人間がいたらコミュニティポータルの作成依頼が爆発していない。そして、やれば分かるが、人のために記事を書こうという人間がそんな高尚な精神を維持しようとしたら、そもそもアンサイクロペディアに来ていない。そして、高尚な精神を向けようとする依頼者を見ると、大体のところ、「人に物を頼む態度」を持ち合わせていない。多くのアンサイクロペディアンがやさぐれるのは、だいたいにおいてこういった人間関係の積み重ねの結果である。

むしろ逆に、作成依頼ではなく「この記事を殺してください」だったら、相当多くのアンサイクロペディアンを動かすことも可能な気がしなくもない。

・・・なんでだろう?

関連項目[編集]