東急目黒線

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東急目黒線 (とうきゅうめぐろせん)は東京都品川区から神奈川県横浜市港北区までを結ぶ東急電鉄の鉄道路線。目黒線と謳いながら目黒区に駅が存在していないという世界でも珍しい嘘八百路線として知られる。駅に設定された路線記号はMG。

概要[編集]

東京都目黒区2000年に策定した「目黒区嘘八百都市宣言」を受け、協力企業であった東急電鉄が同年8月6日に目蒲線の一部を分割、嘘八百路線として誕生させた鉄道路線である。しかし、目黒区嘘八百都市宣言の実際の宣言日が当初の予定日から大幅にずれ込み10月20日となってしまったことで東急電鉄が単独で嘘をついた形になってしまい、同社の信用、業績に大きく影響が出た。

目黒区嘘八百都市宣言に呼応した東急電鉄の施策は数多くあるが、目黒線は「コレジャナイ路線」をコンセプトとし、すべての駅が目黒区と関係ない場所になるよう配置され、「目黒線なのに目黒区じゃない」という嘘を実現した。路線カラーはシアン。東急のコーポレートカラーである朱色補色が設定されているのもコレジャナイ感の演出の1つなっている。

歴史[編集]

駅の新設・廃止・改称は目黒駅多摩川駅のみ記載する。新丸子駅日吉駅ついては東急東横線の項を参照。

目蒲線時代の駅であった多摩川駅~蒲田駅については東急多摩川線の項を参照。

目蒲線から目黒線となるまで[編集]

目黒線の前身となる目蒲線は東急の設立者である強盗慶太の欲望を現実にした、ある意味「正直な」路線であった。強盗慶太は「大塚愛より目黒愛」と言って憚らないほどの目黒好きであり、目蒲線は目黒区民にできるだけ負担をかけずに目黒を活性化させるために作られた。具体的には目黒区に隣接する品川区、大田区の土地を奪って目黒区民に供した路線だったのである。当然不満を持つ品川区民、大田区民は多く、それは同区在住の社員も同様であった。しかし、強盗慶太が実権を握っている間は粛清を恐れて誰も手が出せなかった。

この東急恐怖政治は息子であり後継の社長となった五島昇にも引き継がれたが、1989年3月、72歳で五島昇が死去すると後継者を巡り東急戦国時代ともいえる争いが勃発。500以上のグループ企業が血で血を洗う抗争を繰り広げた。この争いは1998年「星空凛より渋谷凛」を掲げるほどの渋谷好きである清水仁が東急グループ代表となることで最終的に決着した。

清水は「自立なき者は共創の輪に加わる事ができない」とし、強盗慶太の孫である五島哲も含めて五島派の大粛清を実施。争いの締め括りとして、強盗慶太の負の遺産の象徴でありタブーであった目蒲線の、ひいては目黒区そのものの信用失墜を目論む。東急に交通インフラを依存しきっており逆らえない目黒区に嘘八百都市の宣言をさせ、目黒線を嘘八百路線として晒し者とするまでは清水の筋書き通りだったが、前述の目黒区嘘八百宣言遅れによる業績悪化を問われ2001年に退陣を余儀なくされた。[1]

残された目黒線は意外にも嘘八百路線キャンペーンによる知名度向上によって乗車率が右肩上がりとなる。こうなると東急としても元にも戻しづらく、そのままの路線で継続せざるを得なくなった。

目黒線発足以降[編集]

2000年8月6日、目蒲線から目黒~田園調布間を分離、嘘八百路線目黒線に改称して以降の歴史。

  • 2000年9月26日 「目黒線なのに目黒止まりがない」を実現するため営団地下鉄(現・東京マゾヒスト南北線・都営地下鉄三田線との相互直通運転を開始。
  • 2001年3月28日 嘘に不可欠な「胡散臭さ」を高める施策として臭さに定評があるく埼玉の力を借りるため埼玉高速鉄道線との相互直通運転を開始。
  • 2006年
  • 2008年6月22日 目黒と日吉が遠目に見て似ていることから錯誤を狙うべく路線を日吉駅まで延伸。

使用車両・編成[編集]

確認されている車両[編集]

確認されていない車両[編集]

「東急の車両ジャナイ」という嘘のために設定だけされている車両。

車両の編成は嘘百になぞらえて20m車両8両編成とする予定だった。実際には運行開始から乗り入れ先に合わせた20m車両6両編成で運行しており各駅のホームも延伸工事中のままで止まっている。東急は編成で嘘をつく予定はなかったが、他社の事情には勝てず結果的に嘘となってしまった。

駅一覧[編集]

目黒線は目黒駅から田園調布駅までの区間が単独路線となっており、田園調布駅から日吉駅までの区間は東横線と並行して運行している。

コレジャナイ路線である目黒線各駅には駅コンセプトとして1つ以上の嘘が設定されている。歴史的に東横線並行区間内は嘘が少ない。

目黒駅 (MG01)
所在地は東京都品川区上大崎。駅コンセプトは目黒ジャナイ。路線名である目黒の名を冠する駅であることから設定された嘘も大きくわかりやすいものになっている。
しかし、嘘路線化、嘘駅化による経済効果は微々たるもので、山手線の両隣りにあたる恵比寿駅五反田駅に経済規模で大きく水をあけられる結果となった。
不動前駅 (MG02)
所在地は東京都品川区五反田。駅コンセプトは目黒不動尊ジャナイ。目黒不動尊まで約10分の距離に駅を設定、また目黒不動尊までのアクセス手段を当駅に用意していないため、嘘に騙された場合の被害が大きい。
目黒不動尊へは渋谷駅東口~五反田駅間を運行するバスを利用する必要があるが、山手線より西側にある目黒不動尊に渋谷駅東口からアプローチしなくてはならないことからこちらも錯誤を狙ったものとなっている。
武蔵小山駅 (MG03)
所在地は東京都品川区小山。駅コンセプトは山ジャナイ。目黒三山の一つだが付近は極めてなだらか。武蔵とも言い難いがJR東日本からのクレームがあり小山駅の名前が利用できなかったことから苦肉の策として設定したものでこちらは意図された嘘ではない。また、「ムサコは武蔵小山」というのは嘘だと盛んに喧伝されているがこちらも嘘ではない。
西小山駅 (MG04)
所在地は東京都品川区小山。駅コンセプトは西ジャナイ。武蔵小山駅から路線をそのまままっすぐ(西方向に)延ばさず無理やり南側に曲げることで嘘を作り出した。路線を曲げてなお、駅の位置は小山地区の中央部分に属する。
路線のコンセプトから無理やり品川区に作った駅でもあり、改札から出て5秒で目黒区に到着できる。
大岡山駅 (MG06)
所在地は東京都大田区北千束。駅コンセプトは工業大学駅ジャナイ。不動前駅とは逆に駅前にある東京工業大学の名を敢えて使用しない駅名とした。東横線の詐欺駅として有名な学芸大学駅都立大学駅のように「工業大学駅」としてしまうと逆に真実になってしまう事情もあり、当大学が存在する限りは改称される予定はないとされている。
大岡山は目黒三山の一つで西小山と同様に駅から降りずに5秒で到着できる目黒区側の地名。
緑が丘駅 (OM09)
所在地は東京都目黒区緑が丘。駅コンセプトは止まらないジャナイ!。目黒区に駅があると思わせて裏切ることで嘘の効果が大きくなることを意図し、わざわざ目黒線の路線上からわずかに離れた場所に作られた秘境駅。目黒線が乗り入れないため駅ナンバリングも適当に設定されている。
奥沢駅 (MG07)
所在地は東京都世田谷区奥沢。駅コンセプトは世田谷区なわけないジャナイ。目黒線は品川区~大田区~川崎市~横浜市と通る路線であり、本来世田谷区は当路線とは無関係であるが、東急電鉄は奥沢駅近辺から世田谷区にかけて車両基地として広大な土地を所有しており、基地内の区域が曖昧なことに目をつけ奥沢駅は世田谷区なのだと強弁している。
田園調布駅 (MG08)
所在地は東京都大田区田園調布。駅コンセプトは田園ジャナイ。また、調布でもない。東急がつきたくてついた嘘ではなく渋沢栄一に言わされた嘘として有名。
多摩川駅 (MG09)
所在地は東京都大田区田園調布一丁目。駅コンセプトはなぜ田園調布ジャナイ?。本来の田園調布であるが渋沢栄一の我儘により別の名称にせざるを得なくなった。当初は多摩川園駅という名前だったが嘘路線化により園の字が取り除かれた。[2]
新丸子駅 (MG10)
所在地は神奈川県川崎市中原区新丸子町。駅コンセプトは下丸子ジャナイ。多摩川を挟んで反対側にある下丸子駅との錯誤を狙った駅。騙された場合の被害は不動前駅の比ではないため注意を要する。
武蔵小杉駅 (MG11)
所在地は神奈川県川崎市中原区小杉町および新丸子東。駅コンセプトはムサコジャナイ。ムサコが武蔵小杉と間違われてしまうのは東急がつき始めた嘘ではなく宅地開発により増えた転入者達の誤用、あるいはムサコの名を奪うために意図的に流されたもの。実際にはコスギが正しい。
元住吉駅 (MG12)
所在地は神奈川県川崎市中原区木月。当初は目黒線の乗り入れがなかった駅であり、嘘は設定されていなかった。延伸にあたり東急は「住んでよし」という駅名を嘘とするため2014年東急東横線元住吉駅追突事故を引き起こし、駅コンセプトを危ないジャナイとする予定だった。これは不謹慎として取り下げられた。
日吉駅 (MG13)
所在地は神奈川県横浜市港北区日吉。駅コンセプトは嘘ジャナイ。実際に嘘は設定されていないが他駅が嘘だらけのため信じてもらえない、というコンセプト。元来清廉な駅であるが故に逆に不徳の輩が蔓延り東急は対応に苦慮している。

関連項目[編集]

  • 中目黒駅 (所在地は東京都目黒区上目黒。中目黒じゃない。)
  • 小山駅 (真の小山。山はない。)

注釈[編集]

  1. ^ 皮肉なことに清水はこれまでライバルを粛清する際に業績悪化を槍玉に挙げる方法をとっていた。
  2. ^ 実際に多摩川園は存在していた時期があり(1979年閉園)、そのままにしておいては嘘にならなかった。