松代町

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松代町(まつしろちょう)とは、頚城県の南にある山ばっかりの町。川中島の戦いとか松代大本営とかで有名。長野市内にある町とよく思われたり、まつだいとよく呼ばれたりしているが間違いである。

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概要[編集]

昔は有名な戦国武将・真田氏がいたので、結構大きな街だった。でも「真田氏のお膝元」の座を上田氏に奪われても抵抗する力が無いほど、現在は落ちぶれている。今は建物や城跡がたくさん残っている。風林火山ブームの頃から5mごとに幟旗を立てられている。

松代にある「ある山」には、大日本帝国大東亜戦争末期に作った、天皇陛下が避難なされる松代大本営がある。NHK陸軍本部、山の中なのに海軍本部など政府の中枢機能を移転されている。

松代はかつて海に接してもないのに海津と呼ばれていて、川中島と呼ばれていた地域の一部であった。戦国時代武田信玄上杉謙信が5番勝負のプロレスを行った戦場として川中島は有名だが、信玄のセコンドである山本勘助が信玄が少しでも優位になれるように、川中島地域からテキトーに「山勘」で土地を選んで、細工を施したリングを築き、海津城と名付けた。信玄とは男同士の恋人として名高い高坂弾正が、海津城を治めた。

やがて武田が織田信長によって滅ぼされると、今度は信長とは男同士の恋人である森蘭丸の兄・森長可、通称鬼武蔵が、海津城を治めた。ところが3ヶ月も経たぬ間に信長も蘭丸も本能寺の変で討たれ、森長可は高坂ら武田残党の蜂起によって海津城を追い出されてしまった。まだ幼い弟の森忠政は屈辱に悔し涙を流しつつ、「I'll be back」と呟いて復讐を決意する。

時は流れて18年後、徳川家康関ヶ原の戦いの直前に、森忠政に信濃海津城を与えた。この頃、味方の大名を増やすことに腐心していた家康にとって、森を味方につける方法は簡単だった。信濃海津城を与えて、復讐の機会を与えればいいだけだったからである。森忠政は海津城に入るや、城名を待城(まつしろ)に改名した。18年間復讐を待ってやったぜという意味である。城の名称が「ナントカじょう」ではなく「ナントカしろ」というのは非常に珍しい。そして兄長可を追い出した高坂ら武田残党を次々と見つけて、死刑にした。さらに検地と大増税を行い、反発した一揆が起きると徹底的に死刑にした。普通の領主は郷土愛を以て領地をよりよく治めるよう努力するものだが、森の場合は明らかに自分の領地を憎悪していた。関ヶ原の戦いに勝利して天下を制した家康も「このままではヤバイかも」と思ったのか、森に領地を加増すると言って中国地方津山へ国替させた。待城の城名は松城(読み方は同じまつしろ)に変えさせた。

さて家康の跡を継いだ二代将軍徳川秀忠は、関ヶ原の戦いで信濃上田の真田家に煮え湯を飲まされたが、江戸時代に入ると真田が慎重に行動するので、取り潰しの理由ができずに歯噛みしていた。そこでせめてもの妥協点として、上田を取り上げて松城へ国替させた。やがて城名も松代城(まつしろじょう)へ変更となり、名称が普通の「ナントカじょう」に落ち着いた。

松代藩は明治維新で一応新政府軍についたが、領地はそのまま支配できるものと思っていた。松代が長野に吸収されたことを、城下町中心部に住む人々が知ったのはつい最近のことである。人々は城下町の意地とプライドと伝統を固く守ってきたため、現在は城下町の意地とプライドと伝統のみが残っている。なお、その昔の名残で、善光寺のご開帳に欠かせない「柱」は松代から運ばれるが、その費用を賄うため、松代町民には特別の税金が課せられている。

町内中心部には松代出身で幕末の英傑、佐久間象さんを祀る象さん神社があり、境内では象さんが闊歩しており、町民に親しまれている。

町内中心部に松代唯一の近代的施設、松代農協病院の建物が立ち並んでいる。松代農協病院はその名のとおり農協の農協による農協のための病院である。松代で最も目立つランドマークであることから、現代の松代城と呼ばれており、その天守閣はヘリも発着可能であるという。

街並み[編集]

この街は、江戸時代から時間の止まっている場所である。そのため、あまり目立たない東御市の海野宿同様、ちょんまげを付けて刀を持った人たちが多い。逆らったり無礼を働いても滅多な事では斬られないので、安心して観光できる。ただ、大きな屋敷の中で、大砲を作ったり櫓から望遠鏡を使って風景を見たり電信で交信している人に対しては例外。彼は藩主なので、出来る限りの敬語で、頭を地面に埋めるまで頭を下げないと、もれなく斬られます。

松代大本営[編集]

用途[編集]

松代の山の中に作られた松代大本営は、戦時中は「鬼畜米英から大日本帝国を守る最終決戦の地」として作られた。多数の人員(朝鮮人)を使って作ったのでとても広く、ドラゴンクエストダンジョンをモデルにしたと思われているが、実際は逆である。あまりの広さとモンスターの出現率のため、天皇陛下が行方不明になるのを恐れて、宮内省は移転をあきらめた。また戦略的にみても、当初は太平洋から日本本土にアメリカ軍が上陸してくることを念頭に、太平洋からずっと離れた松代に大本営を置く優位性があったが、ロシアがアメリカに与したことで、様相が一変する。つまりロシア軍が日本海から新潟へ上陸してくれば、松代は新潟県の目と鼻の先にあるので、まるでロシアに日本が自分の首を差し出すような格好になり、到底大本営を移転させられるものではなかった。

さて戦後、表向きは気象庁の地震を観測する施設となっているが、実際には帝国陸軍の遺産である「本土防衛人型最終決戦兵器」なるものが保存され、改修を受けている。そのため、中央の通路から左右に伸びる通路には立ち入る事が出来ない。また、東京、第2新東京市第3新東京市が陥落したときのために「第2.5新東京市」を、戦時中よりも地下深くに建設中である。

建設の理由[編集]

  • 東京が米軍の核実験場になる前に、さっさと逃げたかったから。
  • 松代は日本の真ん中だから。
  • 今では全く反対かもしれないが、「頚城県民はマジメで薄い空気でも労働が可能で、秘密を守るから」
  • 珍走団ばりの当て字で、「信州」は「神州」だから。近代の当て字の歴史は、ここから始まったと行っても過言ではない。

保存・公開[編集]

知る人ぞ知る悪名高き篠ノ井旭高校(現長野俊英高校)郷土研究班と土屋光男氏が市に保存公開を無理やり押し付けた結果、20年以上もその醜態を晒している。

謎の地震[編集]

戦後、この付近で謎の地震が数年間に続いて発生し、日本沈没を防ぐための研究材料にされた。噂では、人型最終決戦兵器の暴走や、施設拡大の発破が原因とされているが、詳細は不明。

交通[編集]

  • 近くに、平日はほとんど車が通らないのに、片側二車線の 上信越自動車道松代PAがある。妙高SAよりも高性能なのだが、何故かパーキングエリアである。
  • 長野電鉄の駅がある。あまり人は降りないし、電車の数も少ないが、深夜になると大本営に荷物を運ぶ貨物列車が到着する。路線が通過する3都市に申し入れしたが松代から長野へはバスがあることとこれ以上やっても効果がないとされ、2012年3月アボーンされた。また県から鉄道が消えた。こうなると鉄路だけの町になってしまうぞ。
  • 松代に通じる道路は現在のところ2本確認されているが、景気対策工事のため常にどちらか一方は通行止めとなっている。

関連項目[編集]