松島や

出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』
ナビゲーションに移動 検索に移動

松島や(まつしま-)は、松尾芭蕉による松島への侮蔑を表した俳句である。

松島には島があった。否、島しかなかった。

概要[編集]

当時、仙台藩の松嶋は「日本三景」と持て囃されていた。そこへ現われたのが芭蕉である。芭蕉は松島を次のように詠った。

松島や ああ松島や 松島や

この著作は全文を合わせて11文字だけであり、文字種としては「あ・松・島・や」の僅か4文字である。これは松島には書くべき事が何もないと言う芭蕉の心情を見事に表しきっているされている。それでいながら明確な批判が描かれていない文言からは、当時周囲にいたであろう松島の住人からの圧力をも感じさせる。

修辞技法や冗長性を排除した表現は、当時の技巧に走りがちな宮中文壇に対するアンチテーゼとも言われ、また感情を素直に発したような文言は万葉調の復古とされており、後代の賀茂真淵などによるますらをぶりの提唱や、正岡子規による万葉集の復権へと繋がることになる。

修辞技法への皮肉[編集]

感嘆詞の「ああ」以外には「松島や」を繰り返してるだけの本作には修辞的な表現は何一つと言って良いほど入っていない。「松島や」の繰り返しは反復法やとも取れるが、むしろ「松島や」しか言うことが出来なかっただけだと考えられている。情景描写や具体的な記述など何もなくとも当時の松島の様子が明確に伝わってくる文章には、冗長的で技巧で装飾された表現など対象を記述するには全く必要ないと言う芭蕉の強い主張が含まれている。

この根底には、芭蕉の生まれが農民と言う低い出自に対する強いコンプレックスがあり、俳諧の世界に入っても華やかな宮中文壇には縁がなかったことから、古今集以降の煌びやかな文章装飾に対する強い対抗心があったためと言われる。後に芭蕉は弟子に対して「息を17回するだけでも良かったかも知れない」と語っており、松島の何もなさと強い文章表現への拒否感が伺える。

単純な言葉ながら、だからこそ人々の心に残り、多くの者の目が覚めて、松嶋が「日本三景」から「日本がっかり名所」入りを果たすことになった意義は大きい。また、一部の人間にしか分からないような凝らされた文言に装飾された作品と比べて、数百年後の現代でも誰もが知っている文章として残っている事実は芭蕉の考えが正しかったことの証左となっている。

これは西洋美術の原始芸術こそ人々の心に直接訴える物があると言うプリミティヴィズムとも通じるところがあり、芭蕉の存在は西洋に対して数百年を先んじていたと言える。

評価[編集]

実験作とも言うことが出来る本作には、当時から現在に至るまで賛否の両論が提唱されている。

批判[編集]

多くは修辞技法の全くない本作が名作とされていることに対する批判である。誰にでも作れるという評価が本作に大きく影を落としていると言える。素朴で誰でも作れるからこそ人々の心に残るがこそ、逆に人々からは侮られるという形になってしまう。これはピカソの悪魔などにも見られる評価である。または奇をてらっただけの作品と言われることも少なくない、松島とだけ連呼して作品とするのは、居酒屋で酔っ払ったおっさんの叫びを芸術と称するような物とも言われている。

賛意[編集]

がっかり名所であるという松島の真実をはっきりと気づかせてくれた芭蕉の句には賛同の声が多く、それまで松島が名所として名高かったために明確に批判できずあった松島を歌った短歌や句が、芭蕉以降は明確な批判に回っていることから、その俳人達が芭蕉の句に大きく影響を受けていたことが分かる。

  • 松嶋や さてまつしまや 松嶋や
まず、一例とすれば相模の狂言師であった田原坊が松島を訪れたときに上記の句を詠っている。
完全に芭蕉の盗作である。しかし、安易に彼を非難することが出来ない。彼もまた松島を訪れた時にこみ上げてきた気持ちに嘘をつけなかった被害者なだけである。しかし後々彼は芭蕉の句は自分の川柳の盗作であると言い出した。芭蕉は田原坊の生まれる前の人間であり、田原坊の言い分が中国人も真っ青の強弁であることは批判を免れない。
  • 松島や 鶴に身をかれ ほとゝぎす
これは芭蕉の弟子である河合曾良の作である。これは「松島は声の聞こえだけが良いが見た目は地味なホトトギスのようであり、せめて鶴を借りてでも置いておけ」と言う怒りの声と言われる。師匠とは違い空気を読まずに思ったことを直接的に口にする人物であった。
  • 松島で 死ぬ人もあり 冬籠
これは与謝蕪村の読んだ句である。見て分かる通り松島を見たショックで死ぬ人が出る始末であったことが分かる。誇張表現とも取れるが、松島がいかに酷かったかを訴える気持ちが伝わってくる。

関連項目[編集]