柳生厳包

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柳生厳包(やぎゅうとしかね)は、江戸時代の剣豪。柳生十兵衛で有名な柳生家の分家、尾張柳生家の出身。本家の風下に連なるもの、と自虐を込めて自らを評し、連也斎と号した。

人物[編集]

厳包は常軌を逸したマゾヒストであったことで知られている。幼少の頃、近所の童子達に、「俺の尻を叩け」と幾度も要求し、尻を叩かれる度に悦楽の表情を浮かべていた。本人は後に修練の為であったと述懐しているが、叩かれることに快感を覚えていたことはその時の本人の表情から疑うよしもないことであった。この傾向は成人してからも続いたようで、度々門弟に自分の尻を叩いたり竹刀で滅多打ちにするよう要請し、周囲を困惑させた。

だが、その奇矯な振舞を見た父、柳生兵庫助利厳と、兄の柳生利方は、こいつはただ者ではない人物になると見込み、厳包は三男でありながら兄利方を差し置き家督を継承することを許された。そして、現実に将軍家指南役である江戸柳生の当事の宗主、宗冬を倒し、尾張柳生のテイストを確立させるほどの大人物へと成長するのである。

宗冬との決闘[編集]

そんなマゾヒストの厳包であったが仕合の際は一変して攻撃的な性格に変貌した。本家柳生の当主柳生宗冬と江戸で武術の決闘を催した際、厳包は容赦せず小太刀を振るって宗冬の親指を砕き勝ちを手にした。しかしこの勝負、本家柳生が敗北したことが知れ渡っては沽券に関わると将軍徳川家光が判断したため、試合に関する一切の記録は廃棄されることとなり、厳包が残した日記にもこの日披露した型の演目が記されているのみである。また徳川家の公式記録である「徳川実紀」にはこの勝負の二週間後に宗冬が家光や諸大名の前で剣術を披露したという記述があるが、二週間前に指を砕かれた人間が満足に剣術を行えるはずもないため、試合の痕跡を消すために幕府によって行われた入念なアリバイ作りの一つだと思われる。しかしかろうじて代々の尾張柳生家当主達は、この試合の内容を口承してきたため、この事実は現代において広く知られるに至っている。

尾張柳生の完成[編集]

厳包は本家柳生に対抗心を持っていたことは確かなようで、自分の代で尾張柳生独自の兵法を模索し、構えから踏み込みまで色々とアレンジを施し、尾張柳生ならではの戦法を編み出している。しかし、外野から見れば尾張も本家も似たようなもので、しかも本家柳生も似たように工夫を凝らして兵法を昇華させていったため、どっちもどっちの形になってしまった。

その他[編集]

厳包は性欲の薄い人間であり、「俺の嫁は剣術である」と公言し、妻を娶らぬどころか女性一人も近くに寄せ付けず、一生童貞のまま生涯を終えた。猛然と太刀を振るい本家の宗冬をも圧倒した厳包だが、股間の太刀はあまり振るわなかったようである。彼のアソコが一生厳しく包まれていたかは定かではない。