河野通有

出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』
移動先: 案内検索

河野通有(こうの みちあり)は鎌倉時代の御家人。元寇でモンゴルの侵略者共をやっつけた日本の英雄である。そのため戦後はタブーになってその存在を抹消された。

通有に至るまでの河野家の概要[編集]

河野家は昔から伊予国(愛媛県)を拠点とした由緒正しい武士である。水軍を率いて、海戦を得意としていた。あの藤原純友の討伐にも大いに貢献した。

……と言えば聞こえはいいが、要は田舎の蛮族である。源平合戦の折は河野通久が源氏側に所属して奮戦した。彼は北条時政の娘を母親としており、武家の中央政権と密着度は高かったが、田舎武士に大した褒賞なんていらねえよなあ?と源頼朝に蔑ろにされ冷遇されていた。ただ逆らったら殺される上に他の河野一族が平家に味方して全滅していたので仕方なく御家存続の為に源氏に従った。

時は流れ文永・弘安の時代。蒙古からモンゴルの大軍が攻めて来た。これに対して、通有はわざわざ伊予から博多まで弟の河野通時と共に出陣、日本に対する愛国心の高さを見せつけ英雄の鑑やと礼賛された。500年以上も経過した後世で。

褒め称えるなら生きてる間にやってくれよ!

文永・弘安の役での奮戦[編集]

文永・弘安の役は、モンゴル軍の船の建造にいやいや従わされていた高麗の半島人が手抜きしまくっていたため、船はボロボロであった。そんなことも知らずに勝利は目前と暴れまわるモンゴル人、そして、この船の手抜き工事を看破して船内に侵入し、船を滅茶苦茶に叩き壊してとどめの一押しをして、船を大量に沈没させたのが河野通有と通時の兄弟だと言われている。この為河野兄弟は知将として人々の喝采を浴びた。

しかし事実は異なる。河野兄弟は最初から手抜き工事なんて全く看破していなかった。ではなぜ船内に侵入したのか。略奪の為である。

戦をするのもただではない。剣や弓、鎧を用意するのも金がいる。雑兵どもを食わせるのも金がいる。文永・弘安の役で幕府は博多に防塁を建造したが、それにも膨大な金がかかる。河野兄弟の本拠地である伊予から博多まで行く旅費もかかる。途中の関所ではボッタクられる。

ただでさえ田舎の貧乏武士だった通有にこの出費はきつい。採算が取れないこの赤字をどうやって補填する。手段は一つしかない。敵軍からの略奪である。

現代になって頭がお花畑の人から略奪なんてひどいと言う批判が起こっているが、略奪はモンゴル軍もやっているし、金がなければ戦はできないので他に手段はない。中世の殺るか殺られるかの風潮を現代の基準で語ってはいけない(戒め)

河野兄弟はモンゴル軍の船に潜入し、武器や食料を強奪しまくった。ついでに彼らに奴隷として働かされていた高麗人及び慰み者の女共も拉致した。人間も貴重な資源だからである。

その際、元軍の船が手抜き工事だらけであることを看破したのである。つまり全くの偶然である。しかし手抜き工事を見破った後の兄弟の行動は迅速だった。この船適当に傷つけておけば簡単に沈むんじゃねえのか、そう考えた兄弟は船内を荒らしまわった。水軍を率いている武士達である。船の脆い場所、傷つけると致命的になる根幹は重々承知である。

かくして蒙古軍の船をボロボロにしまくった河野兄弟は、略奪した金品武具及び奴隷や売春婦を連れて博多へせっせと逃げ出した。しかし、この時弟の通時は欲張り過ぎて、船に略奪した積荷を積み過ぎた為、船が沈没して溺死した。

戦後、通有はこの戦功を褒められ多くの褒賞を受けたらしい。また間抜けな死に方をした弟通時については名誉の戦死を遂げました!と捏造して英霊として祀ってもらった。

その後の河野家[編集]

しかし、略奪ついでに連れ去った高麗人の奴隷はその後河野家にとって地雷となった。

彼らは伊予まで連れて行かれて土着したのだが、「我々は無理矢理鬼畜日本に連れて行かれたニダ!」と主張を始め、徒党を組んで利権ヤクザを形成、室町時代末期には一揆を起こすようになり、これが原因で河野家は衰退に衰退を重ねたところを長宗我部元親に攻め込まれて壊滅的な被害を蒙り、豊臣秀吉に元親ら四国の大名らと一緒に仲良くお仕置きされて所領を没収され滅亡した。

なお戦国時代の島津家も同じようなことを朝鮮出兵でやったそうだが、彼らは泣く子も黙る戦闘民族であったため朝鮮民族が徒党を組んで決起した程度では到底つぶせなかった。その辺は連行された朝鮮人達も賢かったので面従腹背して共存していたようである。

しかし河野家の血筋は途絶えず、傍流が細々と生き延びた。そして時は遥か流れて現代、河野洋平河野義行というちょっとした有名人達を産み出すこととなった。

現代での評価[編集]

日本をモンゴル軍の侵略から守った救国の英雄だが現代における評価は低い。元寇は向こうから侵略してきたのだが、戦後になると外国との戦争は全部日本が悪いと言う風潮が盛んになり元寇も豊臣秀吉の朝鮮出兵や太平洋戦争と乱暴に十把一絡げに扱われタブーとなった。

どれほどのタブーぶりかというと、河野通有が戦利品として持ち帰ったモンゴル軍の甲冑や矢が大山祇神社の宝物館に展示されているが、その説明書きにはモンゴルのモの字すら書いていないありさまである。またGHQの指導によって戦後の歴史教科書からも完全に抹殺されてしまった。太平洋戦争末期には士気高揚のためのプロパガンダ映画の主人公にまで祭り上げられてすらいたのに、である。

それだけではなかった。末裔の一人である江の傭兵愛国心の極めて強い人達にとっては不倶戴天の敵であった。その悪評は先祖である河野通有にも及び、左右の両翼から攻撃され続けている彼は今なお正当な評価を受けられずにいる。

関連項目[編集]

Wikipedia
ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「河野通有」の項目を執筆しています。