浅野史郎

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浅野 史郎(あさの しろう、1948年2月8日 - )は日本の元政治家、元厚生官僚、元宮城県知事(在任期間 : 1993年11月21日 - 2005年11月20日)。2007年4月8日の東京都知事選に挑戦するも、当選に至らなかった人物。落選後は慶應義塾大学にて教授として「知事論」を担当する予定。こうした人生の転落・浮沈から彼を神格化する動きもあるようである。通称「仙台二高の恥さらし」「共産党の言いなり」

生い立ち[編集]

典型的な団塊世代の申し子である浅野史郎氏は、幼少の頃から秀才の誉れ高く神童と呼ばれ、ビバオールを食べて育った。県下トップの仙台二高、東大法学部からキャリア官僚と、まさに何不自由なくエリート街道まっしぐらの人生を送っていた。大学在学中に安田講堂落城という事件があったが、仙台人である彼にとっては安田講堂が落城しても、青葉城が落城しなければ安心であるので、影響は無かった。

『浅野課長が知事になれた理由』[編集]

1993年宮城県に衝撃が走った。当時の県知事と仙台市長が一緒に警察にしょっぴかれたのである。いわゆるゼネコン汚職事件である。エリート官僚とはいえ「課長」でしかなかった浅野だが知事選に出馬しあっけなく当選。「改革派知事」の急先鋒としていろいろやったが、その辺はウィキペディアの専門家気取りたちの中でも、とりわけ頭の悪い右翼とか左翼の蔑称で呼ばれる者らがウィキペディアで見苦しい編集合戦をしているから、高邁なアンサイクロペディアンの皆さんは、高所からおにぎりでも持って見物していれば良い。

宮城県知事時代[編集]

仙台六十二万石の主となった浅野は、まずゼネコンに「お取り潰し」の命令を下した。談合が出来ない、宮城県で行われる公共工事は日本で最も儲からなくなったので、浅野を恨んだ。ついでに前知事本D氏(逮捕済・ご協力ありがとうございます・実刑でダイエットしました)のやった事を片っ端からひっくり返した。三本木町の大規模福祉センター事業をつぶしたので、近隣の住民に恨まれた。

仙台市と宮城県は仲が悪く、ことある事に足を引っ張り合うが、サッカースタジアムでも仙台スタジアムと宮城スタジアムが建設されてしまった。仙台市が「これからは郊外開発よりも再開発だ」と主張するが、仙台の周囲、ぎりぎり仙台市内に入らないあたりに、大学や図書館を設置してみたり、ショッピングセンター計画を行った。一方でモロに仙台市中心近くにある宮城球場は放置したので佐々木一浩をして「宮城の恥」と言わしめた。お互いの嫌がらせは頂点に達するが、宮城県民にとってお家騒動は仙台藩開闢以来の娯楽なので、むしろ歓迎されて浅野は二選を果たした。

交通の面でも、仙台市と宮城県の戦いが行われている。ルールは「赤字の額が大きい方が勝ち」という、住民迷惑なものだが。宮城県は仙台空港鉄道を敷いた。仙台市は仙台市営地下鉄東西線で対抗している。

教育の面でも、高校の共学化を推し進め、自らの母校でもある仙台第二高等学校や宮城第一女子高等学校を共学化にした。まぁ、他県の人間にとっちゃ、くだらねえしどうでもいいことだが、仙台の政財界や市民の間では許せないものがあるみたい。県議会とか一高との猿山合戦でもOBが怒り狂ってたし。どうやら、あれで政財界からもそっぽを向かれたようだ。

任期間際には警察に喧嘩を売るという、ちょっとクラックをキメていそうな行為まで行った。県警察の捜査報償費を認めなかったのである。警察も意地を張り「帳簿は知事にも見せない」とこちらも押収した覚醒剤をキメていそうな手段で対抗したため、宮城県民も流石にまずいと思ったのか、新知事は別人となった。

花祭りの都知事選[編集]

2007年の都知事選の選挙公示がされると各候補者が名乗りを上げた。現職の石原慎太郎はもとより、ぐんにゃり建築でお馴染みの黒川紀章、選挙の常連ドクター中松共産党からは吉田万三、「政府転覆」で名を馳せたスキンヘッドの外山恒一、その他占い師やら風水師やら芸能人やらで、実績ある候補や泡沫候補が入り乱れての「百花繚乱」の選挙となった。その中で、今までの実績にくわえ、民主党の支援を受け、その他もろもろの団体を味方につけていた浅野は、決意も新たに都知事選に出馬した。長期にわたる石原都政が腐敗の極みに達していたこともあって、追い風に乗って順風満帆の様子であった。

しかし順風満帆に見えたのは、周りの女性陣が戦況の不利を彼に伝えなかったからだともいう。何度となく集会を募ってはシュプレヒコールをあげ、強気を通した選挙戦。何をやっても疲れを見せない女性陣に対し、浅野氏は日毎に目の下のクマを濃くさせていった。何を聞かれても「疲れていません」「泣いていません」「鬱でもノイローゼでもありません」「死にたくありません」「むしろ生きろと言ってくれ」と頑張りの姿勢を見せ続けるところにも、団塊世代ならではの、逆境に負けない逞しい精神力を窺うことが出来るだろう。

意外なことに、反石原で一致するはずの、黒川候補、吉田候補はこぞって、浅野候補の過去の業績を、あたかも恥部のように宣伝しまくるので、浅野氏はキレかかった。黒川紀章曰く「浅野氏はヤクザじゃないかと思いましたよ(週刊文春3月29日号)」。あのドクター中松候補にさえ、「キレやすいあなたには薬が必要だ」とまで言われたことで、浅野氏は精神的に参りはじめた。「誰かがオレを陥れようとしている…」。

それでも、のどがつぶれ、声がかれたときも「つぶやきシローになってしまいました」とギャグに転じる余裕は見せることはできた。そのギャグで周囲が温かく応援してくれたのも、浅野氏ならではの人柄である。家族が送ってくれたお守りを握りしめ、人知れず「ニンニク注射」を打ち、ニンニクを生で齧り、行く先々の食事はニンニクとニラが必ず入っていた。こうしてスタミナをつけ、くさい吐息を撒き散らしながらも、イヤがる人々をものともせず何度と泣く握手を交わし、当選を最後まで疑わなかった浅野氏…。 そして投票日の4月8日が来た。

各陣営も、開票作業が始まると、緊張した面持ちで、吉報が来るのを待っていた。

動きはすばやかった。開票1%の時点で、早速、石原慎太郎三選が決定したのである

浅野は泣いた。脇目も振らずに泣いた。県下トップの仙台二高、東大 法学部からキャリア官僚、そして宮城県知事。挫折知らずのエリートの目は赤く充血していた。この投票日はちょうど花祭り、お釈迦様の誕生日であった。この当落もなにやらほとけさまのお力があって、こう動いたとしか思えない。何とも意義深いものであった。口すがない連中は「仏罰覿面(ぶつばちてきめん)」と言ってたらしいが、それは余りに浅野氏に酷であろう。かくして浅野氏の都知事への夢は「オシャカになったのである」。

だめじゃねぇか[編集]

かくして花祭りの選挙は終わり、選挙対策本部では反省会が開かれようとしていた。その時マスコミの取材陣にも聞こえるように響いたのが、浅野氏の「ダメじゃねえかっ!」である。現場を仕切る秘書に向かって吐き捨てるように言ったこの言葉。これに浅野氏の本音が込められていた、と考えるのは早計であろう。彼は周囲の人に気を使わないガサツな人物でない。

これは、ドリフターズいかりや長介の身を張った有名ギャグ「ダメだ、こりゃ」を仙台弁なまりで言った発言であり、「選挙でお疲れの皆さん、これも一種のギャグなんですから、気持ちをこわばらせないで、ゆったりリラックスしていきましょう、こんなバカでダメなオレだけど、本当に長い間有難う…」という心を込めた、浅野氏ならではの気の使い方だったのである。そんな彼が落選するのは返す返すも残念なことである。

それから数年後の2009年6月4日にで東大病院に入院した。

関連項目[編集]

宮城県仙台市の福の神
浅野敗北で東京を去る予定のフェミニズム運動の指導者
浅野史郎の支持母体。