清水義範

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来歴[編集]

実は彼は人間ではない。ぺしゃんこに踏みつぶされたミミズの死体である。ミミズは1947年名古屋で誕生し、すくすく成長したが、ある日、土の中からスコップで舗装されたアスファルトの上に放り出され、車に轢かれて死んだ。

ところが、死んだ後もミミズは生きていた。ミミズは思考を始めた。ミミズは哲学的な頭脳を持っていた。何故死体である自分が意識を持っているのか。なぜ我々名古屋人は名古屋弁を喋るのか。なぜ方言があるのか、最近日本語が乱れていないか。

色々なことを考えた。思案した末に、ミミズの死体は予備校講師となった。前代未聞の、史上初の、人間以外、それもミミズの教師の作家の誕生であった。どえりゃあ事件であった。ミミズの死体は教師として生まれ変わった(肉体はミミズの死体のままだったが)。彼は清水義範と名乗り、教鞭をとった。ミミズの死体がいかにして教鞭を取れたのかは謎が多い。

しかし、不況の影響を受け、教師だけでは生活できなくなった。すると彼は副業として作家を始めた。歴史学を学び歴史学者の末席にも名を連ねた。マルチな才能を発揮した彼は作家としても歴史学者としても成功を収めた。ミミズの死体のくせに、そんじょそこらの有象無象の人間よりも世の中に有益な業績を残した。

以上の経歴は全て嘘である。ミミズの死体が喋るわけないじゃん。

概要[編集]

前述の来歴は、清水がおちょくって作った嘘の来歴である。こういう嘘の来歴を作ったのは、清水がおちゃらけた嘘が大好きだからである。

清水義範は予備校講師であり、作家であり、歴史学者である。後に林修らへと続く変人講師の系譜を作り、変人講師の歴史に先鞭をつけた伝説の予備校講師である。

予備校講師時代の専門は国語であった。家庭教師も兼業していた。国語教師としての仕事をこなしていくうちに、清水は日本の教育、特に現代文の授業が如何に頭が固いだけで学び甲斐もへったくれもないかに気づいて、辟易した。そして、頭が固いだけで柔軟性も糞もない日本の教育を、ユーモアを以て小馬鹿にしまくってやろうと考えた。清水は、膨大な赤本や、大学関係者が趣味丸出し/受験生への嫌がらせ目的で出した過去問を片っ端から渉猟して、大学試験、特に現代文が理不尽の塊であることを看破した。そして、国語問題のおかしさをユーモアを交えて風刺した『国語入試問題必勝法』という暴露本を出版、いかに大学受験が理不尽な運ゲーであるかを世に知らしめた。この著作はたちまちベストセラーとなった。

しかし、暴露本を出したことで、大学関係者達からは反感を買った。なぜこんな暴露本を出した、お前は何者だ、譴責された清水は「私はミミズの死体である。釈明できる能力がない」と、のらりくらりの態度を取った。前述した、清水はミミズの死体であるという嘘の履歴は、この時に造られた。

やがて、少子化や現役重視に伴い予備校を訪れる浪人生は減少し、予備校講師だけの仕事では食うに困るようになった。そこで清水は国語教師としてのノウハウを生かして作家活動を始めた。また歴史の教師としてもキャリアと知識があったので、それを生かして在野の歴史学者としても活動を始めた。

歴史学者としては主に童話の猿蟹合戦徳川宗春の研究に心血を注いだ。彼の研究によって、猿蟹合戦は実は日本人にとって忠臣蔵と同じぐらいに、その文化に密着した物語であることが明らかにされた。この研究成果には丸谷才一もびつくり、度胆を抜かされたといふ。

清水は国語教師の知識を生かして在野の言語学者としても活躍し、欧米圏に20世紀、意識の流れというものが勃興したように、日本には20世紀広範から「日本語の乱れ」と呼ばれる潮流が発生したことを突き止めた。何でもかんでもルー大柴のようにイングリッシュにコンヴァーションするテンデンシーにはディスティングイッシュドなプロブレムがあると指摘したが、清水のオピニオンは社会からイグノアーされた。

他にも、フョードル・ドストエフスキーの「罪と罰」の本当のタイトルが実は「金貸し殺し」だったという真実を暴くなど、その功績は枚挙に暇がないが、彼が暴いた真実は不都合な真実だったので社会からは無視された。

複数の名義を使い分けており、確認できるだけでも、岡庭陽一、佐々岡信二、島村銀山、痴水幼稚範、小崎洋太郎、野崎勉などがある。

作家として[編集]

清水の作品の多くはパスティーシュである。パスティーシュとは、パロディであり、高尚なものとして世の中に流布している名作の数々をおちょくって文章を弄繰り回したり、他の作家やら日本国憲法の文体を真似することである。はっきり言って、パロディ元より面白い。なぜこれだけのパスティーシュが作れるのかというと、清水は青魔導士のアビリティを会得していて、ラーニングによって他の文豪達の文体を習得できるからである。

歴史学者として[編集]

猿蟹合戦と徳川宗春の研究に顕著な業績がある。ただ、宗春の研究に関しては、暴れん坊将軍などで宗春の宿敵徳川吉宗が英雄扱いされているので、吉宗に喧嘩を売った悪役である宗春の再評価が進んでしまうと、英雄吉宗の偶像に傷がついてしまう。そのことを皆恐れてか、清水の宗春に対する研究の業績はなかったことにされている。

清水義範と猿蟹合戦[編集]

清水義範の歴史学者としての業績の内、宗春の研究と並んで特筆すべきなのが、猿蟹合戦に対する研究である。猿蟹合戦という民話は日本の文化を語る上で欠かせない重要なものだが、なぜか専門的に研究しようとするのが現代では清水ぐらいしかいない。大学に所属して良い知行を貰っている高名な研究者達は本居宣長だの西田幾多郎だの和辻哲郎だのなんとなく高尚そうな雰囲気のある人々の研究しかしない。

なぜ清水はここまで猿蟹合戦の研究に心血を注ぐのか。それは彼が日本の歴史に詳しいからである。古事記にはこのような記述がある。

Quote1.png かつて日本という国は、土蜘蛛という蜘蛛のお化けと、無数の蟹さん達が共存して、仲良くくらしていた。
ところが、大陸から人間という野蛮な猿がやってきて、土蜘蛛は皆殺しにされ、蟹さん達も次々と撲殺されて食べられていった。
土蜘蛛は蟹さん達を逃す為に人間相手に決死の抵抗をして全滅し、生き残った蟹さん達はいずこかへ行方をくらました。
Quote2.png

蟹が猿へ仇討をする猿蟹合戦という民話は、この悲しい歴史の犠牲となった土蜘蛛や蟹さん達への鎮魂と憐憫を目的として造られた可能性が濃厚になっている。現在に伝わる猿蟹合戦では不都合な真実として抹消されているが、蟹が猿へ仇討する際に蟹へ協力してくれる蜂、臼、毬栗、うしのくそは、皆、最初は土蜘蛛の亡霊が付喪神的な何かになって蜂の死骸、臼、毬栗、うしのくそに憑依したという設定であった。猿蟹合戦は、日本の原住民の、リアルでは決して成就しない抵抗と反逆の物語であった。

真に日本を愛する人々(契沖や本居宣長)は、古事記が明記する日本の歴史の暗部にもしっかりと目を通していた。猿蟹合戦という民話はいつごろ成立したのか明確な答えが出ていないが、平安時代頃には既にあったんじゃないのと言われている。しかし、どんな民話も、語り継ぐものがいなければ、消滅してしまう。猿蟹合戦という民話を語り継いでいったのは、契沖や本居宣長である。日本の歴史の暗部を、風化させてはならないという彼らの思いが、猿蟹合戦という民話を語り継がせた。

清水のやっていることは、契沖や宣長と同じである。消されるなこの思い、忘れるなこの歴史、清水は契沖や宣長の思想を継承して、猿蟹合戦を後世に継承させる語り手となっていった。

また、清水は「猿蟹の賦」「猿蟹合戦とは何か」「船が州を上へ行く」など、猿蟹合戦をモデルにした小説やエッセイも多く執筆しており、猿蟹合戦を皆に知ってもらおうと精力的に活動している。