社会的包摂

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社会的包摂(しゃかいてきほうせつ)とは、社会の「勝ち組」が行う「負け組」への植民地主義であり、手の込んだ排除の儀式である。

概要[編集]

格差社会の到来に合わせるかのように、「社会的に排除される人間が増えている。1人も仲間外れのいない社会をつくらなければならない」と社会学方面で唱えられるようになった。その時によく唱えられるスローガンがこの「社会的包摂」である。ここから出される言葉は一見優しそうにみえる。

しかし、その本質は「あいつは俺たちとは異なる体系だが、立派に自足した世界観を作り上げているのだな」とは一切考えず、「うるせえぞ、お前の信じる世界観なんか俺にとって何の意味もねえんだよ!」とどこまでも上から目線に立って全否定することにある。つまり、標的を勝手に「孤立無援」と決めつけて、「相手にも何がしかの文化や正義があるのでは?」とは一切考えずに、自分の信じる「グローバル社会」の価値観を一方的に押し付けるのが「社会的包摂」なるものの実態である。

その言葉を真に受けて、「勝ち組」の世界観に受け入れられようと必死で努力する「負け組」も存在する。しかし、これまで馴染んできた「負け組」的世界観を「負けていた」と全否定したところで、幼い時から「勝ち組」的世界観に順応して勝利し続けてきた人間にそうした根無し草が太刀打ちできるはずなどなく、99%のケースでは「負け組」は「勝ち組」の世界観の中で徹底的に酷使された後、上層の100分の1の給料だけを引き換えに、「負け組」(往時は負けと思っていなかった)的感覚に充足していた頃より酷い目にあって終わる。そして、絶望感から犯罪に走り、刑務所に入って一生を終える。おお、こうなったら真正の負け組だ。

これが民族単位で発動されると、「今日も絶好調の白人社会が、多文化主義の正義の名の下で俺らには訳のわからん文物に浸っている非西洋人どもの文化を寛大にも包摂してやるか」となる。社会的包摂とは植民地主義を伴うものなのである。

典型的文句[編集]

以下に挙げるのは、社会的包摂の言説空間でよく使われる言葉である。このような発言をかつて「勝ち組」側にいた人間が聞いたら・・・

お前はもう1人じゃないな
つまり、これまでお前は1人だったと勝手に決めつけている。「お前はこれまでの人生(学校含む)で本当に1人も頼りになる友人がいなかったのだな」と断定している。凄い発言である。本当にそう思っているのなら、むしろ聖人視してもらいたいものだ。そのような人間を作り出した周囲の社会を一切考慮することなく。それを全て相手の自己責任ということにしている傲慢さなど一切省みずに。
自分の居場所を見つけろ
これに対して、万一「もう見つけてるのですけど」と口答えしようものなら、「そんな訳あるか!」と一喝してくる。社会的包摂を「勝ち組」の地位から語る人間にとって、対象者の居場所は自分たちに隷属するものでなければならないからだ。
そう思っているのはお前だけじゃないんだ
まず、「自分の意思体系は自分だけのもの」という自画像を破壊して、対象の自分らしさを否定する。しかし、「同じように思っている人間」を紹介してやることは決してない。何故なら、自分の理念を疑う人間が周囲にいない訳だし、その2人が団結してかかってきたら搾取できなくなるからだ。
もう少し楽しそうにしたらどうだ
カラオケなど娯楽の現場で繰り出される定型句である。本人は楽しんでいるつもりでも、楽しんでいないと判定される。くだらない音痴な歌を聞いて「楽しそうにしない権利」などは決して認められない。
全力で笑顔を浮かべれば、悩みは消える
つまり、ただ商業の奴隷として笑顔を浮かべていろ、お前の存在価値なんか所詮それだけだ、顔をしかめて危ないことを思うなよという訳である。商売上の建前に裏切られまくった人間に建前を信じ続けろと厳命している。女子に対して最もよくかけられる言葉だ。
現実と向き合え
対象者の選び取った現実空間に実在する小さな幸福に一切の価値を認めず、「勝ち組」の信じる価値観で動く「現実」に同化せよという訳である。同化した結果、一生「勝ち組」のパシリにしかなれないとしても。
明るく振る舞え
「暗い」性格の人間は「明るい」人間の植民地にならねばならないという信念を込めて発されるこの一言。その暴力を浴びながら明るくなれば、その明るさは気に食わない相手を人とも思わず笑顔で殴り倒す明るさとなるに違いない。
俺だって悩んでいるんだ
この裏には、必ず「でも、下劣なお前なんかと悩みを共有するつもりなんか一切ねえんだけどな」という感情が隠れている。
このままだと検閲により削除だぞ
一方的な最後通牒である。たとえ社会人経験を十分に積んでいたとしても、包摂されるべきと判定された瞬間、それまでの職歴は全てなかったことになり、その手のプロと同列に扱われる。経歴として認められた場合でも、「コミュニケーションが苦手だったから解雇された」と自己総括させられる。ああ、働き損のくたびれもうけ

しかし、「社会的包摂」の対象とされている人間の99%は、かつてこのような発言を公然と行っていた人間なのだ。このような言葉を吐きつけて「名声」と「寛容」の称号を更に手に入れる現下の「勝ち組」の前で、彼らは何を思う。

植民地主義と包摂[編集]

この言説が民族単位に進化すると植民地主義に変身する。植民地主義真っ盛りの頃は、非西洋人の文化はそれだけで本質的に劣っているから、「文明化」して我らの一部に進化させねばならないと、名門大学の優等生たちが笑顔で声明していたものだ。

しかし、その欺瞞が脱植民地化運動の中で暴かれると、宗主たちは新たな手下を求めなければならなくなった。そこで発案したのが、これまでは同一民族として連帯の対象だった真面目で大人しい青年を植民地化することだった。

何故なら、植民地の人間は互いに別世界の人間だと思っているから、邪険にし過ぎると反抗してくるのに対して、そうした青年は、こちらが同じ民族と全く思っていなくても、同胞民族からのありがたい託宣だ、愛しているから敢えて厳しくしてくれているんだと妄想して、どんなに邪険(一応、先生や上司の目を意識して表面上は笑顔)に排除しても感謝して歯向かってこないことに気が付いたからだ。それに気づいた彼らは、すぐさま非西洋人相手だとヘイトスピーチ判定されるような暴挙を、同一民族相手に公然と行うようになった。彼らは上流階級の歓心を買うために、褒め言葉でさえ悪意の言葉に変換する話術を備えている。

この空間は他所にも伝播していく。被害者となった青年たちは自分たちの受けた同じ言葉を某所の用語を用いて女全般にぶつけ、憂さ晴らしをするようになった。しかし、言葉で洗練されていない彼らはすぐさまセクハラ容疑で刑事告発され、反抗したばかりに全ての責任を押し付けられて悪魔の「ヘイト・スピーチ主義者」としてプロファイリングされ、二度と上級職に就けなくなった。

アンサイ的包摂[編集]

拾い猫.jpgこの利用者はアンサイクロペディアにおける包摂主義者です。
できることなら削除はしたくない。

アンサイクロペディアには、上のように削除厨に対抗する包摂主義者という括りが存在する。彼らはどうしようもないと判断された記事を救済すべく、その記事の「カイゼン」に取り組む。

しかし、包摂主義者はユーモア弱者のことを思いやっている訳では決してなく、ただ記事の中身を自分が好きなように変えたいだけである。事実、彼らがカイゼンした後の記事は、初版の痕跡が跡形もなく消え去っていることが珍しくない。

ユーモア弱者は無断で書き換えられた記事をみて、自分の記事との違いに愕然とさせられる。そして、こんな場所でユーモア競技などすべきでない、いや観客でもいるべきでないと判断して、去っていく。

これが現実になった場合、包摂主義者は実際にはアンサイクロペディアンの候補生をユーモアでもって排除したことになる。ユーモアの質が向上したのと引き換えに。果たして、問答無用の削除厨に対して、包摂主義者はどこまで正義だったのだろう?

関連項目[編集]