芋茎木刀

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芋茎木刀(いもがらぼくと)とは九州宮崎(旧称:日向)の、特にその東側の男性の性格を、本来揶揄されるべきものを歯に衣着せて言いくるめて表した言葉である。

言葉の意味[編集]

意味は、良く言えば

「木刀のように勇ましいが芋の茎でできた木刀であり、内面は優しいメンズ ♡」

と言われている。しかし、悪く言えば

「芋の茎でできた木刀みたいに、フニャッフニャ頼りになんない男 !!」

である・・・物は言いようとはこの事であろう。ちなみに宮崎弁で形容すると、「ほがねか(シッカリしてない、役に立たない)わろ(ヤツ)となる。

芋茎木刀へ至る歴史[編集]

事の起こりは、日向の御天気屋こと伊東義祐とその部下たちの奢りに始まる。

以下、その経緯等は長くなるが、「ローマは一日にして成らず」、「芋茎木刀は一回のアーン♥ ♥だけじゃ産まれず」なので御了承いただきたい。

昔の日向男[編集]

それまで日向の男は、威勢が強くて人の意見を聞かず、口論となった相手を容赦なくSATSUGAIするという、人としてしょうもない性格であった。残念ながらこれは、武田信玄が愛読していたという『人国記』という書物にしっかりと書き残されている。

そこへ戦国時代、日向の地頭大名伊東氏を継いだ伊東義祐が現れるのだが、この義祐、苦難があるとすぐに落ち込み、諦めては現実逃避に走る性格で、逆に一度勢い着くと人の迷惑など顧みず、悪事すらも厭わずに、めったやたらと調子こく気分屋もいいところであった。

そして、ペットは飼い主に似るの言葉よろしく、義祐の部下および領民たちもこの性格に感化されていった。

調子こいて足元を掬われる[編集]

義祐は縁戚であった北原氏を強引な方法で乗っ取り、地頭クラスでは成れない筈の相伴衆の身分を義祐に多大の賄賂を貰った見返りとして任じた足利幕府の命令すら無視し、天領となった飫肥を侵略するなど、アコギな方法で日向統一に王手をかけた。すると、義祐の性格を受け継ぐ部下たちも日向守護・島津氏に対して調子づき、「島津どま、竹竿一本で討っちゃったるが~」と、ただノリと勢いだけで余裕ぶっこき言い放つ始末であった。

事実、真幸院侵攻の前に放った間者が、地元の皮膚病患者の一般人に看破されて殺されても、「いっちゃが、いっちゃが。いっちゃがゴールド(by NHK宮崎)」と下らぬことを言い、気にすら留めなかった。しかも、真幸院攻めも余裕シャクシャクと考えたものか、これを若武者に手柄を上げさせる場だとして、数人の老練なる人物をつけただけの若武者ばかりを集めた3,000人で、ロクな作戦も錬らぬまま無警戒で攻め入ったのである(「てげてげ」という技の一種ともされる)。

ところが、薩人マシーン2号”シーマン・オーガ”こと島津義弘は、不利になれば不利になるほど強くなるチート気質であり、結果として伊東勢は義弘の率いたたった300名に若武者の殆どを討たれ、全員がほうほうの体で逃げ帰る始末であった(木崎原の戦い)。

そして彼らは勘違いしていた。彼らの言う竹竿とは、その代用としてただ竹輪を縦に繋げたものだったのである。いくら日向灘に面して山より海が近い土地柄とはいえ、これはいただけない。

見かけ倒しへの道[編集]

その敗戦以来、一転して「島津と戦ってん、どんげしてん勝てんわ…」と義祐気質の諦めグセが家中に発動、義祐およびそれに性格の似きった家臣らは、義祐と共にシッポを巻いて日向より逃亡する。本来の日向男の気質が残る一部は島津氏に降り薩摩隼人化していったが、降伏しなかった者や合戦に動員されていた日向東部の領民らには義祐気質だけが残った。

その後、伊東氏は味噌大国の大岩より誕生した大猿の元で、逃亡の果てに義祐を見限ったまあまあ才智ある末子伊東祐兵スケベエではない。スケタケと読む)が日向飫肥の大名に復帰する。しかしその家臣は相変わらずの性格なので、義祐気質は忘れられることなく日向東部に定着していった。

そうして生まれ今日に至るのが、都城市小林市高原町えびの市佐土原町などの薩摩隼人が治めていた地域を除いた宮崎男を意味する言葉、「芋茎木刀」なのである。

……まぁ、初期の日向男の性格よりは全然マシであろう。ただ、ガラスのハートだからみんな、彼らに優しくしてあげてね、約束だ。

関連項目[編集]