観応の擾乱

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観応の擾乱(かんのうのじょうらん)とは、日本の歴史上最大最凶最悪の兄弟ゲンカである。

主役[編集]

足利尊氏
足利幕府初代将軍様メイショウヨシイエこと源義家の末裔。つまり鎌倉幕府初代将軍様にして嫉妬と猜疑心の塊・源頼朝とは同族。正真正銘の同族。「我こそは新田義貞の末裔にして源氏の血筋である!えっへん!」とか言って自分の系図を捏造した徳川家康とはまるっきり格が違う。しかし大変残念なことに、尊氏はキチガイの天才であった。他方、変わり身の早さと懐の広さはハンパ無かった。目一杯良く言えば「カリスマ性があった」・・・そう、躁鬱病持ちの重度の精神障害者カリスマ。尊氏のこの気質が、彼の死後まで延々と続く悲劇を招くことになったのでアール。
足利直義
真・足利幕府初代将軍。何故かって?お遊戯やチャンバラは全部尊氏が取り仕切ってたけど、審判やお勉強は全部直義が取り仕切ってたんだから><!・・・というわけで尊氏とは1歳違いの全弟同母兄弟が一致団結して中央政府を開き、長期間に渡って二頭体制を維持したというのは世界的に見ても稀な例であろう。少なくとも日本では他に例を見ないぶっちゃけありえなーい。前述のように躁鬱風見鶏鷹揚としていた兄・尊氏に対して、弟・直義は伝統格式を重んじる謹厳実直な性格であった。このような直義と決定的にソリが合わなかったのが、尊氏の側近・高師直であり、やがて尊氏の我が子可愛さ(足利義詮)も相俟って、日本全国(当時)を二分する史上最大最凶最悪の兄弟ゲンカを招くことになったのでアール。尊氏が最も愛した三人の男・エントリーNo.1でアッー!る。

脇役ども[編集]

高師直
佐々木道誉と並ぶBASARA大名の代表格。ならず者。乱暴者。殺戮マニア。南朝・吉野宮を焼き払う等の戦果により、直義から「尊氏最愛の男」の座を奪い取る。当然、元々ソリが合わなかった直義との関係はどんどん険悪に。尊氏が最も愛した三人の男・エントリーNo.2でアッー!る。
足利義詮
尊氏の息子。後の2代将軍なのに影が薄い。ひたすら影が薄い。能力は高かったらしいんだがとにかく影が薄い。この辺、叔父・直義とそっくりである。・・・全ては尊氏をヨイショしまくってるクソ歴史書のせいだっ><!!最初は鎌倉で実母と一緒に人質生活を送り、やがて新田義貞に救出して貰うと鎌倉から北条氏を殲滅追放して鎌倉幕府を滅ぼし、叔父・直義と共に鎌倉に居座る。ところが今度は北条の残党に鎌倉を襲われ、直義と共に逃走。しかし父・尊氏に従って鎌倉を奪還し、安住の地を得た・・・うっそぴょーん。何と京都の尊氏の下へ呼び戻されてしまう。ついに直義と高師直のケンカが沸騰し、直義が敗れたせいである。こうして直義の代わりに審判やお勉強を受け持つことに・・・なったはずが、今度は直義と南朝に代わる代わる京都を攻め立てられ、幾度となく逃亡を余儀なくされる。義詮が逃げ回らなくて済むようになったのは、父・尊氏が死んで2代将軍として跡目を継いで以降。何と不憫な。尊氏が最も愛した三人の男・エントリーNo.3でアッー!る。
足利直冬
尊氏がそこらの馬の骨側室との間にもうけた息子。すぐに直義の養子にされてしまった。重度の精神障害者にして実父・尊氏が全く見向きもしてくれなかった為、謹厳実直な養父・直義をまるで本当の父のように慕った。やがて尊氏にとって、直冬は最大級の脅威となるのであった。

端緒[編集]

そもそも、足利幕府は成立当初から初代将軍・尊氏の人格同様に決定的矛盾を抱えていた。軍事の天才ではあるが気まぐれで感情に流されるままの尊氏と、軍事的才能は雑兵未満だが謹厳実直で抜群の政治力を誇る直義。この1歳違いの兄弟が、それぞれの得意分野をキチッと役割分担する。こうした二頭体制が敷かれていたのである。その一方で尊氏は、感情の起伏が激しく戦争大好きな高師直という重臣に自らと同じ臭いを感じたらしく、この手の施しようが無い乱暴者を重用し、全くソリが合わない師直と直義が諍いを起こす度に、師直の肩を持つようになっていった。要は、師直にはデレデレ、直義にはツンデレだったんだな、うん。折りしも、1339年に尊氏自らがヤンデレが高じて吉野の山奥へ吹っ飛ばした後醍醐天皇が崩御し、足利幕府にとって脅威となる外的要因が消滅したことで、尊氏は何の憂いもなく最愛の三人の男へ全精力を傾けられるようになった・・・これが全ての悲劇の始まりであった。

歪んだ愛情[編集]

というわけで1340年代に入ると、幕府内部では兄弟愛と同性愛に加えて、親子愛が激しく入り混じるようになった。しかし、この3つの愛の根本は全て将軍様(尊氏)にあった。何のことは無い、将軍様こそが観応の擾乱の元凶だったのである。将軍様は、直義を心から信頼して愛情を注ぎ(ツンデレ)、師直を心から大切にして愛情を注ぎ(デレデレ)、息子・義詮を心から溺愛して愛情を注いだ(デレデレ×∞)。もはや八方美人どころの騒ぎでは無い。重度の精神異常者の面目躍如である。これじゃ、幕府内部がゴタゴタするのも当然である。いや、むしろゴタゴタしないほうがどうかしてるだろ。というよりも、師直に加えて義詮という愛息が居るにも拘わらず直義がなかなか失脚しなかったのは、まあまあ平和な時期が数年間続いたことと、何よりも直義自身の抜群の政治力が存分に発揮されていたからである。

鼎立終焉[編集]

多重人格で重度の精神障害者であった尊氏のこうした愛情に耐えかねたのは、宇宙一の兄弟愛を誇っていたはずの直義であった。幕府内には尊氏や師直を支持する派閥も多かったが、直義を熱烈に支持する派閥もまた多かった。・・・そう、尊氏が発する複雑怪奇な愛情は、いつの間にか複数の派閥の形成の誘因となっていたのである。そしてついに直義は師直の罷免、ついで討伐を画策したが、先手を打った師直は直義に対してお得意の実力行使を発動し、第一線から退かせてしまう。これを受け、尊氏は息子・義詮を直義の代わりに据えた(出来レースだったんです。流石多重人格者・尊氏)。こうして尊氏(&義詮)・直義・師直の鼎立は終焉を迎え、事態は一気に史上最大最凶最悪の兄弟ゲンカへと発展していったのである。

擾乱勃発[編集]

この頃、既に西国では不穏な動きが起きていた。直義の動きに呼応した直冬が、軍勢を率いて上洛を図ったのである。直冬は、尊氏が差し向けた幕府軍に敗れたものの、九州に逃れて勢力を一気に拡大した。やがて尊氏自ら直冬追討軍を率いて西下する構えを見せると、直義は京都を脱出し、東西で兵を集結させた。錯乱状態に陥った尊氏は、北朝光厳上皇恫喝して直義追討令を引き出す。すると直義は南朝に降伏し、北朝を討つという大義名分を手に入れる。尊氏(&師直・義詮)と直義(&直冬)の兄弟ゲンカはもはや当人たちの手を離れ、お互いの派閥による全国を二分した戦争へと発展してしまったのである(「観応の擾乱」勃発)。

泥沼[編集]

南朝という後ろ盾を得た直義は、かつて鎌倉で自分が面倒を見ていた義詮が守る京都へ攻め込んだ。義詮はロクに抵抗できぬまま尊氏に泣きつき、再びスイッチが入った尊氏は京都目指して攻め上るが、何と京都の遥か手前で直義軍に2連敗を喫する。進退窮まった尊氏は、「師直に頭を丸めさせるから!お前と同じ坊主にさせちゃうから><!」と直義に泣きつき、どうにか和睦に持ち込む。しかし、師直に散々煮え湯を飲まされてきた直義派は収まらず、道中で師直とその一族を皆殺しにしてしまう。直義は義詮の補佐という形で幕府に舞い戻るが、尊氏派と直義派との感情のもつれはもはや修復不可能なレヴェルに達しており、更に弟(ツンデレ)に部下(デレデレ)を殺された尊氏の情緒不安定に拍車が掛かったことで、事態は泥沼に嵌まり込んでいったのである。

哀しき兄弟[編集]

必死のクリンチによって、辛うじて兄貴の将軍としての威厳を保った尊氏だが、もはや自己統制が取れない状態に陥っていた。そして、尊氏派・直義派の面々が本人たちよりも遥かにプッツンしていたのは言うまでも無い。半年と経たないうちに、尊氏は佐々木道誉や赤松円心らにクサい芝居を打たせて京都の直義を挟み撃ちにしようと図ったが、とてもお勉強が出来た直義は手早く味方を結集して京都を脱出、地盤のある北陸で態勢を整えて一気に南下、鎌倉を制圧。この結果、日本の大部分(当時)を直義派と南朝が占める事態となり、尊氏は再び窮地に陥った。心の整理が出来て無いうちに行動するもんじゃないよね。尊氏は絶叫した、「ぼくは死にましぇん!!」と。そして今度は南朝の後村上天皇を恫喝して直義追討令を引き出す。尊氏と北朝は一蓮托生。つまり、尊氏が瀕死の状態では北朝なんてお飾り。ところが!南朝を言い包めてしまいさえすれば、直義は後ろ盾を失い、尊氏は息を吹き返す!・・・「戻れない 楽しかったよ あの頃は」(読み人知らず)・・・尊氏が我に返ったのは、息子(デレデレ×∞)に京都を任せ、弟(ツンデレ・・・だったのに)をコテンパンに打ち負かした後のことであった。

脚本:石ノ森章太郎[編集]

(直義降伏直後の鎌倉)
尊氏「十六年ぶりか・・・」
直義「は・・・?」
尊氏「そなたと共に鎌倉の空を見るのは・・・」
直義「・・・」
尊氏「いろいろとあった・・・お前がいなかったら俺はここまでやれなかっただろう・・・」

尊氏「・・・本当のところ将軍はお前のほうだったかもしれん」

尊氏「お前が・・・田楽好きであればよかったのに・・・」
直義「・・・雪ですよ」
(直後、直義急死。自派の連中の圧力に精神が持たなかった尊氏による毒殺であったという)

その後[編集]

史上最大最凶最悪の兄弟ゲンカは、兄が弟を葬り去ったことで一応の決着を見た・・・はずだったのだが。今度は西から直冬が京都へ攻め入り、直義派の残党と共に甥の義詮を追い詰める。・・・そう。元を正せば直冬だって尊氏の息子なんだもん。この京都攻略は失敗に終わったものの、尊氏は死ぬまで直冬(直義)派・南朝・後醍醐天皇の怨霊・直義の怨霊に悩まされ続け、最期は精神障害の極致に達して息絶えた。跡を継いだ2代将軍・義詮もまた、直冬(直義)派・南朝・後醍醐天皇の怨霊・直義の怨霊に加えて尊氏の影にまで悩まされ、終いには毎晩寝床でハッスルしまくることで現実逃避をしていたとか、していなかったとか。この辺りは尊氏をヨイショしまくってるクソ歴史書に詳しい。史上最大最凶最悪の兄弟ゲンカの影響が払拭され、足利幕府が平常運行を開始するのは、義詮の息子・3代将軍義満の時代になってからのことであった。


ツンデレ ……見ての通り、この記事「 観応の擾乱 」は書きかけなわけだけど…、はぁ!?何言ってんの?勘違いしてるんじゃないわよ! べっ、別に加筆して欲しいわけじゃ無いんだから!まぁ、アンタがどうしても加筆したいって言うのなら、加筆させてあげてもいいんだけど…… (Portal:スタブ)