豊田景俊

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豊田景俊(とよだ かげとし、生没年不詳)とは、平安時代後期から鎌倉時代前期の武士であり、鎌倉幕府の御家人である。

概要[編集]

治承4年(1180年)8月、源頼朝にそそのかされて長兄の懐島景義と一緒に謀反治承・寿永の乱)に加担する。次兄・大庭景親や末弟・俣野景久が必死に説得したにも関わらず、結局洗脳から醒めることなく、石橋山の戦いに突入していったのであった。

が、最後に勝ったのは頼朝だから、結果オーライである。

その後、勝ち馬に乗った景俊はトントン拍子で出世。建久3年(1192年)に行われた頼朝の京都観光に同行した時は、ナンバー15の座(随兵十五番手)に収まったものの、これが人生のピークだった

以来、吾妻鏡から姿を消し、再び登場したのはおよそ30年後の承久3年(1221年)6月、宇治橋の戦い(いわゆる承久の乱)でずっこけて腰を負傷したのが記録に残されてしまっている。それっきり引退してしまったようで、その後、彼の消息を知る者はいない

人物[編集]

桓武平氏良文流の一族である鎌倉党に属し、相模国豊田荘を治めた事から豊田氏を称した。

印象的な活躍ぶりが記録に残されている兄弟たちに比べ、影が薄い(ウィキペディアに項目がない事からも、それが判る)。ちなみに頭髪も薄かった模様[要出典]

通称は次郎または平次郎だが、次兄の景親の通称が「三郎」であることについて言及してはならない。また、別の史料では「豊田五郎」と書かれる事もあり、もう何だか訳が分からなくなっている。

父である大庭景宗の墓が領内に残されている事から、単なるバカではなかったようで、それなりの信頼関係がうかがわれる。

黒歴史[編集]

先述した承久の乱でずっこけて腰を負傷した景俊だったが、戦後の論功行賞で「豊田五郎が敵四名を討ち取り」と記されたため、そんな記憶は全くなかったものの、「貰えるものは貰っておこう」としらばっくれて恩賞にあずかろうと進み出たところ、同じ豊田五郎でも豊田景春であった事が発覚。

あわや詐欺罪で追放されかけたが、息子・豊田景次が身代わりとして豊後へ流罪となった事で、どうにか助かったのであった。

関連項目[編集]

みなさん、松平です。 この項目「豊田景俊」は、日本史に関連した企画書ですが放送日が迫っています。アンサイクロペディアではその時でないのに歴史が松平アナを動かす! (Portal:スタブ)