道光帝

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道光帝(どうこうてい、乾隆47年(1782年)‐道光30年(1850年))は、中国・清朝第8代皇帝、医者、拳法家。在位1820年-1850年。諱を初め愛新覚羅綿寧のち、即位後に旻寧と改めた。諡号、效天符運立中体正至文聖武智勇仁慈倹勤孝敏寬定成皇帝。廟号、宣宗。嘉慶帝第2子。母は孝淑睿皇后、妻は孝静成皇后。よく麿赤児に顔を間違えられた(模様である)。


功績[編集]

皇太子時代、天理教の反乱事件の際には自ら跋扈に赴き、たったひとりで数百人の逆徒を一瞬にして葬った(模様である)。その戦い振りに、実は北斗神拳伝承者ではないか!、と噂が立った。

そんなこんなで、拳法皇子という異名をもち民衆にもチヤホヤされたが、この反乱は清朝始まって以来はじめて紫禁城内の突入を許したものとされ、皇族として恥辱を味わっている。

その後、皇帝に即位したものの、今度はイギリスからのアヘン密輸が後を絶たず、あろうことか自身の身内や朝廷内にまで中毒患者が現れる始末となる。閣僚の間でも健康を害したりゲロゲロ状態のまま政務や首脳会談及び記者会見を行い風紀を乱す傾向が強まった。そこで道光帝は、自ら臣下を一人一人診察しはじめるようになり、場合によっては経絡秘孔を突いてみんなの体調を治してあげた(模様である)。その的確さは、顔を一目見ただけでその者の健康状態を識別できるほどのものであったとされ、診察を受けたものがほとんど回復したことから、やっぱり北斗神拳伝承者ではないか?、と噂が立った。

このアヘンの影響で物価は高騰、民衆の生活が困窮すると、1836年には元祖炎の料理人林則徐を欽差大臣に登用しアヘンの密輸の取り締まり、更には禁輸の方針を徹底させる。そして、林則徐は大規模なBBQ大会を開催。没収したアヘンを(よせばいいのに)見せしめに焼き払うというパフォーマンスを行なった。これにブチキレしたイギリス軍と大モメになり1840年に起こったのがアヘン戦争である。

はじめ、清朝側の名将関天培らの活躍もあったが、結局この戦争で大敗した清朝は、南京条約を結ばされた挙句アメリカやフランスとも条約を締結する羽目になり屈辱を味わう。

こうして、道光帝の代よりのち、清朝は内憂外患に晒され皇帝の求心力を失って行った。1850年、太平天国の台頭に頭を悩ませつつ崩御している。