長門型戦艦

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長門型戦艦(ながと がた せんかん、Nagato type Battle-Ship)とは、大日本帝国海軍の軍艦である。

概要[編集]

堂々たる威容。

大正時代(1920年代)に提唱された八八艦隊計画によって建造された最初の軍艦であり、何はなくとも「最初が肝心」とばかりに急造されたためにひたすら威容(見栄え)に特化したものとなり、その後ずっと大日本帝国海軍を象徴する大艦巨砲主義を体現するような艦となった。

長門型軍艦には型式名ともなった長門(ながと)と陸奥(むつ)とが存在するが、これは長州藩 (長門)斗南藩 (陸奥)を象徴しており、大日本帝国海軍の「長州も会津も、互いに恨みはあろうが八紘一宇の精神、天皇陛下の御心を察した上で、共に力を合わせて海防に尽力すべし」という一種の自己満足である。

しかし、海軍はその創設当初から薩摩閥の独壇場となっており、そこへ思い出したように長州と会津を持ち出してみたところでしょせんは無意味なたわごとに過ぎないことを、当の天皇陛下自身が痛感しているくらいであったため、数少ない旧会津藩出身者が圧倒的大多数の薩摩藩出身者にいじめられる構図が変わることはなかった。言うなれば、先生に庇ってもらったいじめられっ子が陰で一層いじめられるようなものである。

かくして建造された両艦であったが、二隻目の陸奥が「これはワシントン海軍軍縮条約に抵触(違反)するのではないか?」とアメリカによって言いがかりをつけられた。だからと言って莫大な資金を投入して建造したせっかくの戦艦であり、むざむざ沈める訳にも行かなかったため、やむなくアメリカ海軍にコロラド級戦艦3隻(うち1隻はこれを見越していたのか、すでに密造されていた)の建造を認めることを条件にしてどうにか見逃して貰ったものの、ちゃっかり横槍を入れてきたイギリス海軍にも戦艦2隻を新造する権利を承認せざるを得なかった。

これについて、当時の世論は海軍の弱腰を大いに批判したものの、海軍当局は「それを認めるにせよ認めないにせよ、結局アメリカ・イギリスは戦艦をこっそり建造しただろう。それなら、同時にこちらの軍備増強も認めさせた事で相対的な軍事格差の広がりを防ぐ事が出来た。よって、今回の判断は間違っていない」として、辛うじて面目を保つことに成功した。いつの世にも唯一にしてベストな選択肢など存在せず、よりマシでベターな選択肢が存在するだけである、という現実を痛感させられた日本の軍事外交であった。

兵装[編集]

そのような事情の下に建造された長門型戦艦であったが、搭載された兵装は当時における最先端技術を駆使したものばかりであり、欠乏しがちな予算の中から、どうにかやりくりして装備したものであったが、それはすなわち海防に国家の命運を賭ける大日本帝国海軍の維持と面目、そして祖国の繁栄を示したものに他ならなかった。

41cm(45口径)連装砲×4基、14cm(50口径)単装砲×20基
百発百中の大砲8門と百発一中の大砲20門、どちらかと言えば百発百中の大砲を重要視する傾向にあった帝国海軍であったが、どちらも装備することで互いの欠点を補い合い、互いの長所を伸ばし合う戦術を編み出すことに成功したのであった。
7.6cm(40口径)単装高角砲×4基
最大の防空は先制攻撃にしかず、後に大日本帝国海軍のお家芸ともなる高角射撃の技術はこの頃から高度化・洗練されるようになった。
53.3cm水中魚雷発射管×4基、53.3cm水上魚雷発射管×4基
それまでの水中索敵技術に加え、いち早く察知した敵影をとらえる水雷技術の革新によって水中から水上から、自在に魚雷を発射する技術練度を高めるべく、最新型の魚雷を用いたこの発射管は、その操作もより簡便化・高精度化させることに成功した。

かくして惜しみなく投入された最新技術は、数々の戦場においてその実力を最大限に発揮することに成功、その後大和型戦艦に継承される大艦巨砲主義の象徴となったのだが、その黄金時代は長くは続かず、海上における戦況の決定権は、間もなく航空機にとって代わられるのであった。

戦歴[編集]

吹けよ神風!

建造された以上、その威容がどれほど立派なものであろうと戦艦を床の間に飾っておく訳にも行かず、長門・陸奥両艦は間もなく口火を切られた大東亜戦争太平洋戦争)において大いにその威力を発揮した。それまで一部の国民から「税金の無駄遣い」とか「気取り屋海軍の単なる豪華妄想趣味」と言われていた手前、常に最前線において戦果を上げることを要求され、昭和16(1941)年の真珠湾攻撃、翌昭和17(1942)年のミッドウェー海戦(その翌年、陸奥は謎の自損事故によって沈没してしまう)、昭和19(1944)年にマリアナ沖海戦そしてレイテ沖海戦をくぐり抜けたものの、さすがに損耗が激しく、修理費の方が新造よりも高額となってしまう試算が出てしまったために横須賀軍港で予備艦とされ、そのまま昭和20(1945)年に終戦を迎えることとなったのであった。

米軍によって接収されてしまった長門は、その翌昭和21(1946)年、核実験の威力サンプルとして沈められてしまったのであった(クロスロード作戦)。これはあたかも歴戦の老勇者が戦いによる死の名誉を与えられぬまま嬲り殺しにされるかのような屈辱的処遇であり、戦後日本人の抵抗精神を徹底的に打ち砕こうとするGHQの意図によるものであったと言われている。その目論見通り、間もなく日本人の抵抗精神はうやむやの内に親米感情にすりかえられ、沈められた長門の残骸は今や天然記念物となった狂信的愛国者の末路を象徴するモニュメントとして、今も海底深くで朽ち果てていくばかりであった。

関連項目[編集]


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