阿衡の紛議

出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』
移動先: 案内検索
Wikipedia
ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「阿衡の紛議」の項目を執筆しています。

阿衡の紛議(あこうのふんぎ)とは、平安時代に起こった、宝物「関白」をめぐるいざこざ。阿衡事件とも言うが、討ち入りや腹切りが登場する物騒な何かを連想させるため、この呼び方は穢れを忌み嫌う公家の方々からは支持されていない。

関白とは[編集]

関白とは皇室に代々伝わる宝物の一種であり、摂政と並び称された。皇室は古くから多数の宝物を有していたが、飛鳥時代の終わり頃に管理しきれなくなり、代わりに臣下に管理させることにしていた。この時代に作られた皇室の宝物目録である大宝律令官員令では、宝物を等級ごとに分類していたが、この中には関白や摂政は掲載されておらず、その存在は極秘とされており、秘宝中の秘宝であった。これら二種の宝物は本来皇族のみが持つことを許されていたが、このうち関白に至ってはそれまでどこにあったかも全く不明となっている。

阿衡の紛議[編集]

その後長い時が経過し、貴族が台頭してきた平安時代には、ついに臣下の藤原良房が長年の功績によって摂政を下賜され、その死後、子の基経がこれを譲り受けるに至った。しかし基経はそれだけでは飽き足らず、密かに、対を成す宝物である関白を我が物にせんと画策していた。そしてついに宇多天皇に関白のプレゼントの予約をとり付けることに成功した。

しかし早漏の基経は、プレゼントの予定日まで待つことができなかった。そしてあろうことかその前日に、どんなものか一目みたい、どうせ明日には自分の物になるんだからちょっと見るだけならいいじゃないか、という軽い気持ちで基経は夜中に宝物庫に侵入し、棚の奥から関白を発見した。基経は関白の、文字通り白く輝いているそのあまりの美しさにすっかり魅入られ、われを忘れてしまった。関白を抱きかかえ、自邸に戻ってから、基経は自分のしでかしたことに気がついた。しかし、空は明るくなりつつあり、今更戻しに行くことは不可能だった。

さて次の日、天皇から基経へのプレゼントのための関白の用意を命じられていた橘広相は真っ青になっていた。宝物庫のどこを探しても、関白が見つからないのである。仕方なくこのことを天皇に報告すると、困った天皇はとりあえず今日中には探し出す旨を基経に報告した。基経はひどく怯えながら、関白は辞退すると返答した。基経としてはこのことに関わらなくなれば、自分が盗んだことも未来永劫ばれないだろうと踏んだのであるが、律儀な天皇のせいでこの逃げ道は封じられてしまった。約束を反故にはできぬと天皇は広相になんとしても見つけ出すよう命じ、広相はどうにも参ってしまう。

天皇の命令を果たせなければ自分の立場が危ういと考えた広相は、関白によく似ているが質が数段劣っている中国製阿衡というまがい物を使って、何とかごまかせないかと考えた。しかしこれが結果的に広相の首を絞めることとなる。

関白が見つかったとの知らせを聞いた基経はひどく驚いた。関白は間違いなく自分のもとにあり、同じ物が二つあるはずがない。天皇から関白とされる宝物(阿衡)をもらった基経は当然不審に思ったが、これでうやむやになってくれればよいと考えていた。しかしやはりそうは行かなかった。いつも一言多く空気が読めないことで有名だった藤原佐世はこれを見て、偽物だ、自分には分かると得意げに言い放ったため、再び大問題となった。ここへきて、このままではそのうち真相が明らかになることは避けられないとした基経は、広相にすべての罪をなすりつけることで保身に走ろうとした。すなわち基経は、関白を盗んだのはその偽物を寄越すという行動や立場から考えて、広相に違いない、見つからないのは金に目がくらんで売却したからに違いないとして、広相を遠島に島流しにすべしと主張した。当事者を事実上この世から消すことによって、二度とこの問題を蒸し返せないようにしなければ自分の命が危うい。そう考えた基経は一切の公務を放棄して自邸に引きこもり、広相が罰られなければ表には出ないと権力にモノを言わせる行動をとったので、朝議は停滞し、天皇はまたもや困ってしまった。

広相を庇いたい天皇は窮するが、菅原道真の助けを借り、関白は広相の過失で泥棒に盗まれたと結論づけることによって、この問題を収束させた。広相は責任を取って官を辞するに留まり、道真の説得の末、基経もついにこれを受け入れた。皮肉にも、事実に極めて近い結論となった。

阿衡の紛議の影響[編集]

紛議の真相は、藤原氏にとって大変都合の悪いものであったため、しばらくの間封印されていた。そのため、世間では基経が引きこもったことのみが強調され、人々の記憶に留まることとなった。この事件により、藤原基経は地位があれば家に引きこもるだけで歴史に名を残すことができるということを世の中に知らしめ、これ以後、基経に倣うように貴族たちの引きこもり傾向はますます強くなっていく。やがて「働いたら負け」という概念が公家社会を支配するようになり、貴族は政務をろくに行わなくなって、武士に政権を奪われていった。

その後の関白[編集]

関白は公式には数十年間行方知れずだったが、藤原忠平の時代に存在が公表され、紛議の真相も明らかになった。しかしその後も、既成事実として摂政・関白は藤原氏(北家)が管理することが認められた。世の中、強い者が正義である。その後藤原摂関家は近衛家・九条家・二条家・一条家・鷹司家の五家に分裂し、この五家が交代で管理することとなり、歴史の中で何度か行方不明になったこともあったが結局は藤原氏の手にあった。時代は下り、安土桃山時代に、近衛家に紛れ込んだによって関白が奪われるという珍事件があったが、江戸時代にはやはり藤原氏のもとに戻った。しかし関白はその後幕末の動乱の中で失われた。一方摂政は朝廷に回収され、現在皇室が管理している。