階伯

出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』
ナビゲーションに移動 検索に移動
Wikipedia
ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「階伯」の項目を執筆しています。

階伯(ケベク)とは、永遠の親日国家百済のために、家族を皆殺しにして国に身を捧げた悲劇の軍人である。すべてはあまりに野蛮な新羅の将軍キム・ユシンに対する自衛の行動だった。

概要[編集]

百済滅亡の決め手になった黄山伐の戦いにおいて、階伯は5000の軍勢を率いて5万を強制動員した新羅の野人キム・ユシン将軍に立ち向かい、戦死した百済の将軍である。出陣に先立ち、妻と子をすべて殺戮した。史書ではこの部分だけが伝わっている。

そのため、どのような経緯で義慈王に仕える将軍になったのかはまったく不明だ。ある説によると、新羅でユシンに奴隷兵としてこき使われていたところを百済に救われて恩義を感じたためとされるが、それ自体もまったくの虚構といい切れない部分がある。ここでは百済の当時の情勢から解説していこう。

衰退する百済[編集]

結果として最後の王となった百済の義慈(ウイジャ)王が就位したのは641年のことだった。義慈王の母は当時新羅の君主だった善徳女王の妹に当たる善花姫だった。姫は姉から天文学的な呪いをかけられて月宮を追われ、拷問死させられるところをソドン王子に救われて王妃にまで昇格した人間だった。なので、姫は新羅を深く憎み、息子に命じて新羅の領土を切り取るよう命令し、義慈王もそれに応えて領土を奪い取った。姫はそれを喜び、恩古(×ンゴ)という娘を探し出して結婚させ、この世を去った。

この戦果に反発した新羅のキム・ユシン将軍は激怒して主君だったはずの善徳女王を殺害し、代わりに真徳女王を就任させた。そして、パシリの王族金春秋(キム・チュンチュ)に命じて百済に潜行させ、国の機密を探ってくるよう命令した。

春秋は仕方がないので百済の都扶余に向かい、草原で一人途方に暮れた。すると、そこに王妃となった恩古がやってきて、何か座り込んでいるではないか。春秋は彼女が立ち去った後の草原を探り、茶色いものを検出して王妃の前に屈みこんだ。

恩古お嬢様、あなたのウ×コはこの上なく香しい匂いがいたします。貴方はただ者ではないのでしょう。私はこれでも新羅の王族です。どうか私と共に新羅へ向かいませんか?

恩古はこのあまりに男らしいプロポーズに思わず微笑みを浮かべた。そして春秋を歴史上最高の××と呼び、褒めそやして母国で言うことを聞くと誓った。春秋は歓喜した。南方の島国で人質生活を送っていた時に得た感覚が生きたと春秋は天にも昇る昂揚感を心から抑えた。やがて、義慈王は母より与えられた恩古姫にうつつを抜かすようになり、「百済は満月」カメを飼って毎日寝てばかりいるようになった。

しかし、階伯らはそんな春秋の真意を見抜き、成忠允忠らと共に春秋の娘が守る大耶城を攻め、みごと落城させて娘を殺した。恩古は春秋の娘を殺した兵士たちに腹を立て、適当な名目をつけて軟禁状態にした。成忠は階伯に対して、炭峴だけは新羅に獲られてはならないと遺言して自害した。

その頃新羅ではキム・ユシン将軍がいよいよ独裁体制を強化し、真徳女王まで暗殺して傀儡の春秋を王座に就けた。新羅の国民はユシンにこき使われる春秋に大いに同情し、国力を大いに伸張させた。そして660年、ユシンは高句麗に攻め入る振りをして百済への侵攻を開始した。春秋は命じられて、恩古だけは助命するという手紙を扶余に送り、百済軍の出撃を遅らせてもらった。ユシンは易々と炭峴を突破し、扶余目前の黄山伐に陣を敷いた。唐の蘇定方も海軍を派遣し、河口部に軍を進めた。

家族を斬る[編集]

この惨状を見て、階伯は「自分を苦しめた祖国にこそ忠義を尽くすのが軍人の本分」と腹を決めた。しかし、勝ち目はまったく無かった。それに、キム・ユシンが恐るべき殺人集団に変貌させた精鋭イケメンホモ軍団に婦女を渡せば何が起きるかは容易に想像できた。

そこで階伯は何とか唐に助命を請えと自分の妻子に告げた。しかし、妻子は「この国を恐るべき新羅の狂人に渡して自分だけ逃走することは軍人の妻の本分に反します。どうかその心を野蛮なキム・ユシンに対抗できる鬼の心に変えて下さいませ」と述べ、「どうか貴方様の手で直截私達を殺し、永遠の鬼神になって下さい」と涙ながらに請願した。階伯は涙を流しながら妻子を皆殺しにして、自ら退路を断ち、あえてキム・ユシンのごとき鬼の道を行くことを決心した。

黄山伐の決戦[編集]

階伯はいざという時の秘密部隊として保存しておいた大和系の精鋭兵士5000名を宋山里秘密基地から連れ出し、黄山伐の平野(黄山の原)でキム・ユシンの部隊と対峙した。階伯は攻めてきた兵士を迎え撃ち、緒戦に勝利して敵将を捕えた。しかし、その仮面をよくみてみると、まだ16歳の若者ではないか。まだ鬼になりきれていなかった階伯は「キム・ユシンはこんな若造を将とするほど民衆を粛清しているのか。何と哀れなことよ」と判断して、新羅軍に送り返してやった。

その兵士官昌(クワンチャン)は新羅軍でとことん拷問にかけられた。父親品日(プミル)はこう怒鳴った。

「貴様は偉大なるユシン将軍が精鋭イケメンホモ軍団に課された新たなる使命を知らぬのか!すべてを軍に捧げる兵士となり、花のように命を散らすことをもって本分とすることを!」

官昌は反省して拷問された体のまま再度突撃し、再度階伯の下に引き出された。今度はさすがに階伯も心を鬼にし、官昌を処刑した。そして、こんな悲劇を煽ってやまない新羅のキム・ユシンを殺さない限り半島に平和は訪れないと判断して鬼のごとき突撃を始めた。そして、「軍に協力することこそ至上の忠孝」と説く盤屈を斬り殺したが、あまりに鬼になり過ぎて冷静さを失ってしまい、途中で5000の部隊共々全滅した。

百済滅亡[編集]

もはや百済の王宮に猶予はなかった。階伯らが時間を稼いでいる隙に王宮の者は続々と唐の方に降伏しようとしたが、キム・ユシンは逃げ遅れた女官たち3000名を先頭に立って追い詰め、落花岩から突き落として歓声を挙げた。なお、今日の韓国人は唐がこの悲劇を巻き起こしたと主張しているが、これは完全な誤りである。

降伏した義慈王と恩古は唐と新羅の連合軍の前に引き出された。新羅の金春秋は草原で拾った恩古の茶色い物体が干物化したモノを見せ、ユシン将軍に彼女を助命するよう嘆願した。ユシンは売国先となる唐の将軍が目の前にいるのをみて、その願いを渋々受け入れ、恩古夫婦を唐へ送還した。しかし、ユシンは帰国後、自分の意志に背いた春秋を暗殺して妹と春秋の息子を文武王として即位させた。そして鬼室福信が嘆願してやってこさせた日本の軍隊を白村江の戦いで人海戦術により撃破して百済復興の夢を断ち切った。親日派狩りの嵐が吹き荒れる中、百済の数少ない有能なる者は日本へ逃れた。

関連項目[編集]