Tennis for Two

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発表時のポスター。1950年代とは思えない先駆的なデザイン

Tennis for Two』(テニス・フォー・ツー)とは、1958年8月18日に発表された家庭用ゲーム機およびそれに附属の対戦アクション・スポーツゲーム。開発元はアメリカブルックヘブン。製作総指揮はウイリアム・ヒギンボーサム

概要[編集]

ゲーム機の名称そのものは内蔵のゲーム「Tennis for Two」からとられた。用途は家庭用ゲーム機。

1958年に開発された世界初のコンピューターゲーム機である。本機は前述の内蔵ゲーム「Tennis for Two」しか遊ぶことができないゲーム機だが、その内容は「テニス」だけでなく「テーブルテニス」「ピンポン」「卓球」と、画面を見なければプレイできる「ブラインドテニス」を加えて計5種類に及んでいた。さらに内部を改造すれば「地球とは異なる重力環境下におけるテニスモード」も遊べたため、一つで複数のゲームができるゲーム機としても世界初であるといえる。

当時としては斬新かつ先駆的な機能ばかりを搭載した本機であったが、商業的には失敗している。売上がわずか1台(自社購入のみ)という散々な結果に終わったこともあり、開発元のブルックヘブンはこのゲーム機の発売のみでゲーム事業から撤退。後継機の開発などは一切行われなかったため、家庭用ゲーム機の歴史は1977年Atari 2600まで20年近く停滞することになる。

開発[編集]

開発前史[編集]

このゲーム機の開発には第二次世界大戦時にマンハッタン計画に加わっていた経歴を持つ物理学者ウイリアム・ヒギンボーサムが深く関わっている。彼は1947年からニューヨークのブルックヘブンで働いていた。

彼は物理学の博士号を持っており、微分・積分など簡単な計算補助のためにアナログコンピューター数台を職場でも私的に利用することが認められていた。1958年の初夏、退屈しのぎに数台のアナログコンピューターを繋げていくうちに「コンピューターを通して遊戯が出来るのではないか」というアイデアを思いついたのが本機の開発の始まりであると見られている。その後、彼はコンピューターを職場での退屈しのぎに使っていた。

だがこれはあくまで職務怠慢であるため、彼は上司に見つからないようコソコソとやる他なかった。そこでヒギンボーサムは「ゲーム機としてビジネスにすれば職場で大々的に暇つぶしができる」と考え、ゲーム機の開発にとりかかった。これが本機の開発の始まりである。なお、作業には途中からエンジニアのロバート・ボブ・ドボラックが加わった。

内部構造・機能[編集]

本ゲームのCPUを担うドナー・モデル30
  • CPU:ドナー・サイエンス社製アナログコンピュータ モデル30 ×2
  • 映像出力:CRO型オシロスコープ(5インチ・15インチに対応)
  • 音声出力:オシロスコープ内蔵リレースイッチ音源を使用
  • コントローラー:アルミニウム製コントローラー(独自開発)
  • プレイ人数:2人

ディスプレイがオシロスコープなのはボールの打撃音をリレースイッチの切り替え音で再現するためである。これによりボールを跳ね返す時に音が発生し、ゲームがより一層リアルになった。

だが開発において何よりも革新的だった点はゲームをARPANETを通したネット対戦に対応させようとした点である。これは現在では2010年代以降主流となるネット対戦を見越していたと高く評価されている。

ネット対戦の基本的な原理としてはテニスボールの軌道を関数を用いて数値化し、そのデータをパケット交換によってやり取りするというものだった。だが本体だけで既に冷蔵庫ほどの大きさがあった本機に、ARPANET対応機器を追加すれば家一軒ほどの大きさになってしまうことが開発においてネックとなった。さらに通信速度が決定的に不足しており、接続したところでボールの軌道の元となる関数が10秒に1つ送られてくる程度の通信速度であったことから「あまりにも物理的な制約が多すぎる」としてネット対戦機能の実装は見送られた。後々技術の進歩に任せて後継モデルから対応させるつもりであったらしい(だがその後継モデルは出ていない)。

開発終了から販売まで[編集]

ゲーム機の開発はおよそ3週間で終了した。そして1958年8月18日、ブルックヘブン主催の一般向け制作発表会で公開され、実機が設置された特設ブースが設けられた。この時の反応は上々で、製作総指揮のヒギンボーサムも「みんな列に並んで遊んでたね。明らかに他の展示はガラガラだったのに(Everybody stood in line to play. The other exhibits were pretty static, obviously.)」と述べて悦びを露わにした。このブースは翌年の1959年まで一般公開され、家庭向け販売も開始された。

だがその後、開発を巡って資金繰りが悪化。売上が自社購入の1台のみであったことが最大の問題となり、商業的に失敗だったとみなされて本ゲーム機の販売・後継機開発も共に中断された。このため実機は世界でただ一台のみブルックヘブンで保管されることになったが、これも部品の再利用のため1960年までに解体されてしまった。このため本機は世界に一台も現存しない。

ゲーム「Tennis for Two」[編集]

本機に内蔵されていたゲームであり、世界初のゲームである。そして本機に対応した唯一のゲームでもあった。

ストーリー[編集]

1950年代のアメリカ。かつての世界大戦でヨーロッパ戦線の激戦地を渡り歩いた百戦錬磨の兵士ジョン(John)は、終戦と共に除隊を経験した。生きがいを無くしてしまった彼は除隊後にはみるみる太っていき、流行りだしたファーストフードに手を出したが最後、体はかつて戦士だったとは到底思えぬ肥満体に成り果て昔の仲間に笑われる始末。妻から「何か運動しろ」と言われ通い出した近所のテニススクールで、ジョンは次第に過去の鍛え上げられた肉体と運動神経を取り戻していく…。

というストーリーなのだが、当時のオシロスコープはアルファベットが表示できなかったため全てカットされた。

登場人物[編集]

キャラそれぞれに特性というパラメーターがついており、「玉が見えないサーブを打てる」「氷柱を出す」などの特性がある。

ジョン(John)
主人公の男性。かつての歴戦の戦士。肥満体から脱却するため、州大会を目指す。1Pは常にこの人物を操作することになる。
ドロシー(Dorothy)
主人公を指導するテニスコーチ。女性。スクールとして州大会に出せるレベルの選手を模索していたところジョンを見つけた。
リンダ(Linda)、ロバート(Robert)、チャールズ(Charles)
テニススクールの仲間たち。2Pはこの3人からランダムで選ばれたキャラクターを操作する。
エドワード(Edward)
ストーリー最後の州大会で主人公が戦うことになる相手で、いわゆるラスボスである。

という登場人物がいたのだが、メモリが足りなかったために全てカットされた。

システム[編集]

ストーリーモードとクリア後に現れるフリーモードがある。ストーリーモードは形式上はリーグ戦だが実際は相手が決められており、1Pは2Pと戦って3勝すると次のステージに進むことが出来る。これにより1Pは全5ステージある試合に勝つことで決勝戦を目指していく。逆に2Pが1Pに三勝すると一つ前のステージに戻される(最初のステージではいくら負けても最初のステージままである。そのためゲームオーバーの概念は存在しない)。2Pが四回連続で3勝すると無条件で最終ステージに行くことができる。

フリーモードはストーリーモードをクリアした後に現れるもので、こちらは主人公を除く全ての登場人物と総当り戦で全勝することを目指す。最初に1Pが選ぶことが出来るのは主人公のジョンだけだが、総当りで全勝する=フリーモードをクリアすることでメニュー画面にジョン以外の登場人物が増えていき、その増えたキャラクターでフリーモードで操作できるようになる。

というシステムだったのだが、オシロスコープがメニュー画面やステージのグラフィックを表示できなかったため全てカットされた。

結果として[編集]

  • ストーリー:カット
  • 登場人物:カット
  • ステージシステム:カット
  • メニュー画面:カット
  • ポイント制:カット(自分で数える必要がある)

メニュー画面や主人公を含む登場人物は一切描写されず、オシロスコープの真っ黒な画面に横から見たテニスコートが浮かび上がり、その上をボールが跳ねまわるゲームとなった。

なぜこんな犠牲を払ってまでモニターをオシロスコープに拘ったのかについて、ヒギンボーサムは「音が出したかったのさ。オシロスコープを使えばボールを打つ時にリレースイッチの音が出る。それがテニスのスウィングの音にそっくりだったからね。音を全部なくすか、ストーリーを取るかと言われたら誰でも音を取るだろう?リアルなサウンドには絶対こだわりたかったんだ」と後のインタビューで答えている。

関連事項[編集]

Wikipedia
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